東海道新幹線が10月1日、開業60年を迎えた。昭和、平成、令和の三つの時代にのべ70億人を運んできた「夢の超特急」は、日本社会の形をどのように変えたのか。AERA 2024年10月14日号より。
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その日、東京駅9番ホームは高揚感で満ちていたという。紅白のモールで天井が彩られ、ブラスバンドのマーチが朝まだきの少し冷たい空気のなかに響く。くす玉が割られて「超特急ひかり号」の文字が現れ、50羽のハトが舞い上がった。1964年10月1日、「世界初の高速鉄道」「夢の超特急」と謳われた東海道新幹線が開業を迎える。午前6時、ひときわ大きな拍手の中を「ひかり1号」新大阪行きがゆっくりと動き出し、グングンとスピードを上げて見えなくなっていった。同じ時刻、新大阪駅からは「ひかり2号」東京行きが、やはり歓声に送られてホームを飛び出していく。
世界銀行からの借款を含む3800億円の巨費を投じ、着工から5年で開業にこぎつけた。戦後日本の、国の威信をかけた大事業だった。鉄道ジャーナリストの梅原淳さんは、東海道新幹線建設の目的をこう解説する。
「経済成長が続くなかで東京-大阪間を行き来する人がどんどん増え、当時、東海道線はパンク寸前でした。そこで、高速化によって列車本数を増やし、輸送力を増強するために建設が進められたのが東海道新幹線です」
大阪万博の成功支える
開業当初の列車本数は、東京-新大阪を4時間で結ぶ「ひかり」が14往復、5時間で運行する「こだま」が12往復。ほかに東京-名古屋間などの区間運行の「こだま」が4往復。開業により、在来線も含めた東海道線の輸送力は38%増えた。
輸送力強化はその後も東海道新幹線の大きな使命だった。列車本数は徐々に増強され、69年には翌年の大阪万博に向け、12両編成の「ひかり」が16両編成に改められる。そして70年に万博が始まると、連日超満員の「ひかり」「こだま」が二大都市間を行き来した。国鉄の記録では1日の輸送客が35万~37万人に上ったという。梅原さんは続ける。