2020年に運用開始された東海道・山陽新幹線、西九州新幹線の「N700S」。開業当初210キロだった最高速度は東海道新幹線で285キロ、山陽新幹線では300キロに達する(写真:小宮山隆司/アフロ)
この記事の写真をすべて見る

 東海道新幹線が10月1日、開業60年を迎えた。昭和、平成、令和の三つの時代にのべ70億人を運んできた「夢の超特急」は、日本社会の形をどのように変えたのか。AERA 2024年10月14日号より。

【写真】「1964年、東京駅で行われた団子鼻新幹線の出発式」はこちら

*  *  *

 その日、東京駅9番ホームは高揚感で満ちていたという。紅白のモールで天井が彩られ、ブラスバンドのマーチが朝まだきの少し冷たい空気のなかに響く。くす玉が割られて「超特急ひかり号」の文字が現れ、50羽のハトが舞い上がった。1964年10月1日、「世界初の高速鉄道」「夢の超特急」と謳われた東海道新幹線が開業を迎える。午前6時、ひときわ大きな拍手の中を「ひかり1号」新大阪行きがゆっくりと動き出し、グングンとスピードを上げて見えなくなっていった。同じ時刻、新大阪駅からは「ひかり2号」東京行きが、やはり歓声に送られてホームを飛び出していく。

 世界銀行からの借款を含む3800億円の巨費を投じ、着工から5年で開業にこぎつけた。戦後日本の、国の威信をかけた大事業だった。鉄道ジャーナリストの梅原淳さんは、東海道新幹線建設の目的をこう解説する。

「経済成長が続くなかで東京-大阪間を行き来する人がどんどん増え、当時、東海道線はパンク寸前でした。そこで、高速化によって列車本数を増やし、輸送力を増強するために建設が進められたのが東海道新幹線です」

大阪万博の成功支える

 開業当初の列車本数は、東京-新大阪を4時間で結ぶ「ひかり」が14往復、5時間で運行する「こだま」が12往復。ほかに東京-名古屋間などの区間運行の「こだま」が4往復。開業により、在来線も含めた東海道線の輸送力は38%増えた。

 輸送力強化はその後も東海道新幹線の大きな使命だった。列車本数は徐々に増強され、69年には翌年の大阪万博に向け、12両編成の「ひかり」が16両編成に改められる。そして70年に万博が始まると、連日超満員の「ひかり」「こだま」が二大都市間を行き来した。国鉄の記録では1日の輸送客が35万~37万人に上ったという。梅原さんは続ける。

著者プロフィールを見る
川口穣

川口穣

ノンフィクションライター、AERA記者。著書『防災アプリ特務機関NERV 最強の災害情報インフラをつくったホワイトハッカーの10年』(平凡社)で第21回新潮ドキュメント賞候補。宮城県石巻市の災害公営住宅向け無料情報紙「石巻復興きずな新聞」副編集長も務める。

川口穣の記事一覧はこちら
次のページ
新幹線の発達は日本の社会を大きく変えた