![1939年3月号表紙。出征する若い兵士と送り出す人々。時局を端的に示す写真。大胆なアングル、卓越したスナップ技法が目を引く
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![1938年2月号「事変写真集 故濱野君の『戦争したフイルム』」から南京攻城戦で殉職した写真部員濱野嘉夫の写真を特集
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![1938年4月号「文壇人の戦線写真集」大宅壮一、吉屋信子の作品
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![1938年5月号「写真と宣伝」から
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![1938年9月号付録の小冊子「銃後の感謝」から。勤労奉仕を称揚する数々の“慰問写真”を掲載。作品は読者から募集された
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![1938年8月号 関西の芸術写真を先導した写真クラブの傑作集を掲載
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![1939年5月号 前衛の旗手として知られた小石清の「南支従軍写真集」を掲載
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![1939年3月号「ヒトラーと少年少女」から。ナチスによる写真の活用を紹介する記事も掲載された](https://aeradot.ismcdn.jp/mwimgs/4/d/574mw/img_4da54962b4e6d1905cf8f40637c3821373239.jpg)
アマチュアへの締め付け
1934(昭和9)年3月号に「写壇の権威をあつめて写真の動向を語る」という座談会が収録されている。出席者は福原信三、江崎清、森芳太郎、秋山轍輔、田中敏男、板垣鷹穂、山脇巌、谷口徳次郎、東京朝日新聞社からは編集長星野辰男と計画部長成沢玲川の計10名。ここで新興写真運動が発祥の地であるドイツで終息したことが話題に上る。秋山が前年政権をとったナチスの弾圧でバウハウスが解散してモホリ=ナギも難しい立場になったと語り、さらに森が日本でも同様の事態が起きるのではと懸念を表明した。
「お膝元の日本も、ナチスのように表面立っての圧迫は来ないでせうが、全体としての人心が日本精神の高調といふ方に向って居りますから、これが極く自由な作家の発達を必ず拘束して行く、一種の日本型に、―我々の余り好まない型にはめていきやしないか、と案じて居ります」
対して成沢は、「日本人は中庸を得た国民」だから「極端まで触れない」だろうと返す。
「随分ファッショの心配もあるやうですが、僕等はその心配はないと思ふ。芸術にまで干輿されるといふやうなことが、若しあるとすれば、勃然として反発するだけの輿論が起こることゝ思ひます」
だが3年後に日中戦争が始まると、森の懸念はまず経済面から現実になった。8月には北支事件特別税として撮影機材や感光材料に20%の税金が課せられ、翌月にはカメラの輸入が軍や研究機関関係に制限された。以降、旧満州や中国を通じての裏口輸入はあったが、当然価格は高騰した。
さらに12月に首都南京が落ちても国民政府は降伏せず、予想外の長期戦になった。そこで翌年4月、近衛内閣は国民総動員法を制定し戦時経済体制へと移行、政府の統制下でぜいたくな写真趣味はさらに萎縮した。ただ、皮肉にもこの統制が国内メーカーを育て、戦後の写真産業の発展の基礎ともなる。戦争の長期化はその遂行目的も変質させた。それはスローガンによく表れていて、当初の「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」から、日本・中国・満州の協調による「東亜新秩序の建設」が叫ばれるようになる。戦争が「聖戦」と称され、思想戦の側面が強調された。
日中戦争によって委員会から昇格した内閣情報部が、その思想戦のためにあらゆるメディアを指導管理するなかで、報道写真の積極的活用を始める。当時、写真を使った宣伝戦において日本は遅れているという危機感が政府や軍部、そして新聞社などに共有されていたからである。ことに36年にアメリカで創刊された週刊グラフ誌「ライフ」(タイム社)には、中国における日本軍の行為を非難するルポがたびたび掲載され、日本を非難する国際世論を喚起していた。
内閣情報部は38年1月に、国民啓発の国策グラフ誌「写真週報」を創刊、木村伊兵衛や土門拳など報道写真家を起用する一方、掲載写真を国民からも広く募集した。集められた写真は同誌に掲載するほか、対外宣伝にも使うのである。
写真の活用が重要視されるなかで、アマチュアたちにも「写真報国」や「カメラ報国」が求められるのは当然だった。ただ、そこには厳しい制限が設けられた。防諜を目的とする軍機保護法や要塞地帯法などで撮影制限が強められ、検閲も強化された。ときには思想警察である特別高等警察に拘引されたものもいた。
報道と前衛
本誌を含め、写真雑誌は当局の方針に進んで協力した。誌面には戦地で撮られた報道的な作品が特集され、記事では報道写真や戦線将士への写真慰問の奨励、日本精神の発揮、国産品使用の推進などがより目立つようになった。
時系列的にみると、南京陥落直後に編集された38年2月号には、南京攻城戦で殉職した26歳の写真部員濱野嘉夫の戦場写真をまとめた「事変写真集 故濱野君の『戦争したフイルム』」が大きく扱われている。3月号では時局下の写真業界の動向をまとめた「支那事変と写真」、美術評論家柳亮による「戦争グラフの心理性とその効果(事変と報道写真)」が掲載された。4月号では「文壇人の戦線写真集」が組まれ、従軍した西條八十、林芙美子、大宅壮一、吉屋信子ら作家の写真が直筆原稿とともに紹介された。さらに伊奈信男が「対外宣伝写真論」を書いて、組写真による報道写真こそ「対外宣伝手段としても、最も強力であり適当なものとなり得る」と説いている。
国家総動員法公布を受けた5月号の特集は「写真と宣伝」で、内閣情報部長の横溝光暉が「思想戦と写真」を寄せ「(読者)諸君の腕と機械と設備はいつでも銃後の戦士になり得ることを提唱したい」と宣伝写真の制作を呼びかけた。10月号の特集「報道写真」では渡辺義雄や図案家の原弘という、対外宣伝の実践者たちが「ライフ」の誌面づくりを詳細に分析、極めて高く評価している。また9月号には読者から募集した写真による小冊子「銃後の感謝」が付録されている。都市風景は少しで、女性が田畑で働きつつ家庭を守り、子どもたちが日の丸を振って遊ぶ姿が多く、これぞ求められる慰問写真という典型が示されている。
こうして宣伝と報道への傾斜を強める一方で、芸術表現の新しい傾向がいっときクローズアップされた。シュールレアリスム芸術の思想に基づく「前衛写真」である。
まず7月号でアシヤ写真サロンが、8月号では丹平写真倶楽部と浪華写真倶楽部の傑作集が紹介され、続く9月号の「全関西写真連盟競技傑作集」でも前衛写真とみられる作品が多数含まれている。しかもナゴヤフォトアバンガルド倶楽部の坂田稔が「初歩者のための前衛写真の通俗的解説」を7ページにわたって記したのは、この時期において唯一、芸術写真家たちの成果である。
このように前衛写真は関西写壇から広がりを見せたムーブメントといえる。それが、この年には東京でも「フォトタイムス」誌の後援で、かねてアジェやブラッサイを高く評価していた美術評論家の瀧口修造を中心に、永田一脩、奈良原弘、濱谷浩、田中雅夫らによって前衛写真協会が結成された。
瀧口が同誌38年11月号に寄せた「前衛写真試論」では、カメラによって意図的に現実をゆがめる以上に、客観的な「記録性」の重要さが説かれている。記録とは「自然や生活の中から見出した影像を複製することではなくて、熾烈な証拠を示す」ことであり、「新しい実在性と美の証拠を発見せしめる」からだ。さらに、この「記録性の精神の確立」は、国策における報道写真の基礎をなすだろうともして、時局への配慮を示した。
だがこうしたアピールに効果はなく、前衛写真は広がらなかった。「前衛」や「アバンガルド」という言葉自体が、否定すべき共産主義思想を連想させたからだ。そこで翌年にはナゴヤフォトアバンガルド倶楽部が「名古屋写真文化協会」に、前衛写真協会が「写真造形研究会」へと改称を余儀なくされ、活動は下火になった。