本作を読みながら思い出したのが、絲山秋子による『沖で待つ』という同期入社の男女の物語である。二人とも住宅設備機器メーカーで九州に配属になるが、彼らがまた関東に異動が決まったとき、ある約束を交わす。それは、もしどちらかが先に死んだら、相手のノートパソコンのHDDを壊すというものだった。約束を交わす、そしてその責任を果たすということが、恋人でも、親友でもない仕事仲間の間で実現されることの気高さ、誠実さに心動かされる。

 おそらくモトコが生きものの世話を引き受けてしまう理由は他にもあるだろう。そもそも、彼女が従事しているのもケア労働である。カラオケ店の早朝シフトで入ってくるモトコがするおもな仕事は、ゲストのレジ締め作業と部屋の掃除、そして、昼シフトのスタッフたちが来る前に店の準備をととのえることである。家庭でのケア実践もケア労働も社会的弱者に集中してしまう不条理を悲観的に語っているというより、むしろそういう日頃不可視化されているケアの実践が、生きものの命も経済活動も陰で支えている現実があることを見えるようにしている。そしてモトコ自身も生きものたちのケアを通して、父親に関するある記憶を忘却から掘り起こすことができた。かつて自販機の取り出し口に除草剤の入った瓶飲料が入っていた事件が多発したとき、父親がさりげなく「自動販売機の商品取り出し口に一度手を入れ」てから、娘のジュースを買うことで命を守ってくれていたという記憶である。

「弱い生きものの多くが命を落とすことを前提としているなら、ケガをした野生動物はその時点で手を伸ばされるべきではないのかもしれ」ない。しかし「見てしまって伸ばせる手を持っていればうっかり伸ばしてしまうのが本能というもの」という手の倫理がある。ここには、“命をあずかる”というケア責任の普遍性がそっと提示されている。

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