一方、同じように“多くを語らず”だったにも関わらず、厳しく批判されることになったのが、1992年バルセロナ五輪の男子柔道95キロ超級の小川直也だった。同大会で古賀稔彦、吉田秀彦の感動的な金メダルに沸いた後、日本柔道界の大トリで登場したのが、前年の世界選手権で無差別級を制して圧倒的な金メダル候補だった小川だった。当時24歳。準決勝まではその前評判通りに危なげなく勝ち上がったが、決勝ではまさかの一本負け。そして記者会見で「完敗です」とだけを語って席を立った。さらに表彰式での終始うつむき加減の態度が、「不貞腐れている」と映り、バッシングの的となった。その後、小川は柔道界からプロレス、総合格闘技の世界へと移り、五輪時のヒールの空気感を纏った「暴走王」として人気を博した。
その小川に憧れ、同じ道を辿ったのが、石井慧だった。柔道家としての才能、実力は申し分なく、21歳の時に2008年北京五輪の男子柔道100kg超級に出場すると、大舞台でも強さを見せつけて金メダルを獲得し、五輪での最重量級最年少王者となった。優勝直後のインタビューで「オリンピックのプレッシャーなんて斉藤(仁)先生のプレッシャーに比べたら、屁の突っ張りにもなりません」とのコメントは新語・流行語大賞の候補60語にノミネートされるなど好意的に受け止められたが、その後も「自分の敵はいなかった」「優勝できたのはみなさんの応援のおかげではなく、自分の才能のおかげ」「五輪は踏み台」などと自由奔放に発言。サービス精神からくるコメントで、“切り取り方”の影響もあったが、柔道界から教育的指導を受け、世間からも批判されることになった。その後、石井はプロ格闘家に転向して活躍した。
1996年のアトランタ五輪では、競泳女子の千葉すずが“バッシングの標的”となった。若き天才スイマーとして早くから大きな注目と期待を集めていた彼女は、メダルの有力候補に挙げられていた1992年のバルセロナ五輪では200m自由形で6位に終わるなどメダルを逃すと、4年後のアトランタ五輪では個人種目で決勝にも進めない惨敗となった。さらに日本の競泳チーム全体でもメダルなしに終わったことで、その理由を「キャプテンの千葉の不振が他の選手に影響した」とするような論調にもなった。それに対して千葉は、テレビ局のインタビューで「オリンピックは楽しむつもりで出たんで」と答えると、その後のニュース番組に出演した際に「そんなにメダル、メダルと言うなら自分で泳いでみればいいじゃないですか」と言い放ち、さらに放送禁止用語まで使って不満をぶちまけると、メディアや世間から激しく批判されることになった。“言いたいこと”は大いにわかる。だが、伝え方やタイミングが悪かった。