作家・高橋源一郎さんが昨年11月に刊行した『一億三千万人のための「歎異抄」』(朝日新書)がロングセラーとなっている。戦乱と飢餓と天災の中世に生まれ、何百年も人びとを魅了しつづけてきた名著ではあるが、なぜ今、『歎異抄』が求められるのか? 高橋さんが大切にした「僕だけが知っている『親鸞』」、そしてその親鸞を「シンラン」と記した理由とは? 改めて、高橋さんに本書を現代語に翻訳することになった経緯と思いを執筆いただいた。
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降り立つことば
ちょっとしたきっかけで『歎異抄』を現代語に訳し、『一億三千万人のための「歎異抄」』というタイトルにして出版することになった。いくら有名な本だとはいえ、700年も前の宗教書だ。売れるとは思わなかったが、予想以上に大きな反響があった。とてもうれしい。もちろん、ぼくの力ではなく『歎異抄』の力なのだが。
「翻訳」するにあたって、いくつか決めたことがある。一つは「親鸞」を、あえて「シンラン」と呼んだこと。もちろん同一人物なのだが、誰もが知っている、有名な「親鸞」ではなく、ぼくだけが知っている「親鸞」という意味で、あえて「シンラン」というカタカナ表記にしたのである。いや、それ以外のことばの多くも、もう一度、一からその意味を知りたいと思って、カタカナにしてみたのだ。
ところで、この「ぼくだけが知っている」という考え方は、『歎異抄』という特別な本にとって、とても大切だと、ぼくは思っている。一度でも『歎異抄』に触れた方はご存じのように、この本の著者は「シンラン」ではなく弟子の「唯円(ユイエン)」だ。そして、この本は弟子が師のことばを書き留めたもの、後世に師のことばを伝え、残したいと熱望してできあがったものだったのである。
短いだけに有名な箇所は多いが、もっとも重要なのは第二条の以下の部分だろう。
「念仏は、まことに浄土に生(うま)るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業(ごう)にてやはんべるらん、総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候(そうろ)ふ」