高橋源一郎さん(撮影/朝日新聞出版写真映像部・上田泰世)
高橋源一郎さん(撮影/朝日新聞出版写真映像部・上田泰世)

 だが「シンラン」はちがった。みんなが口にしなかったことを口にしたのだ。「ジゴク」とか「ゴクラクジョウド」とか、そんなものがほんとうにあるのかと。

「シンラン」は、弟子である「ユイエン」にいうのである。

 わたしは信じている。ほんとうに心の底から信じている。信じることができる。師である「ホウネン」さまのおっしゃることだけは。それだけで十分なのだ。なにもいらないのだ。誰かを心の底から信じることができる、ということ。その能力が自分にはあるのだ、ということ。それ以上のものは、世界には存在しないのだから。

 親は子どもを愛する。理由などなくても。愛したいから愛するのである。人は、他の誰かを好きになる。愛する。たとえ、その愛が実ることはなくとも。たとえ、その人に愛されることはなくとも。愛したいから愛するのである。

 世界はそのようなものであるべきだ。見返りがあるから、意味があるから、みんなに認められるから、そのことをするのではない。なにもなくとも、見返りなどなくとも、意味などなくとも、誰にも認められなくとも、わたしは、たったひとりで、誰かを信じるのだ。たったひとりのわたししか、その人を信じることがなくとも。

 わたしは、わたしの師を信じるのだ。師の「ことば」を信じるのだ。「ことば」には実体などなく、もろく、か弱い。だが、それをこそ信じなければならないのだ。それが「信仰」なのだ。それ以外の「信仰」は無意味なのだ。そして、そんな「信仰」がなければ、この世界が存在する意味などないのだ。

「シンラン」が「ユイエン」に告げたのは、そのことだった。だから、ほんとうは『歎異抄』は宗教書ではない。もっとそれ以上のものなのだ。おそらく、もっとも深い、「愛」に関する書物なのである。だからこそ、あらゆる人と人の「間」に、「シンラン」のことばは降り立つのである。

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 高橋源一郎さんが『一億三千万人のための「歎異抄」』を書く際に到達したシンランの「愛」は、想像以上の衝撃をもって心に迫ってくる。災害による被災や性格苦、孤独や人生における苦痛のすべてから救われることはとても難しい。でもこれが本当の「信仰」なのだとしたら、これ以上に深く、生きることの実感に近い「愛」はない。

 高橋源一郎さんが「AERA 2023年11月27日号」で語った、シンランの「愛」についてのインタビューも併せて読んでほしい。

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