高橋源一郎『一億三千万人のための「歎異抄」』(朝日新書)
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 これは、ぼくはこんなふうに訳してみた。

「正直にいいます。ネンブツをとなえて、ほんとうにゴクラクジョウドに行けるのか、それともジゴクに落ちてしまうのか、わたしにはわかりません。ほんとうにわからないのです。/けれどそれでもいいのです。そんなことはどうだっていいのです。結果としてホウネンさまにまんまとだまされ、ネンブツをとなえながらジゴクに落ちたってかまわないのです」

「シンラン」たちの宗派は「ネンブツ」を唱えることがなにより大切だとした。そのことによって、死後「ジョウド」に「オウジョウ」できると訴えた。なのに、そのもっとも根本的な理念を、心の底からは信じていない、と「シンラン」はいうのである。そんな理念よりも遥かに大切なものがあるのだ。それは、「シンラン」の師である「ホウネン」を信じることだったのだ、と。

 それはいったいどういうことなのだろう。「ホウネン」がかつて「シンラン」の師であったように、そのとき、「シンラン」は著者である「ユイエン」の師であった。だから、「ユイエン」は、心の底からその秘密を知りたいと思って、このことばを書き記したのだ。ほんとうに「ジゴク」なんてものがあるのか。あるいは「ジョウド」なんてものが。宗教にとって、これ以上、深刻な問いはないはずである。

 およそあらゆる宗教というものにつきまとうもの。「信仰」とか「来世」とか「救済」とか「神」といったもの。それがなければ、そもそも「宗教」など存在することができないなにか。しかし、それらはほんとうに「信じる」ことができるのだろうか。「死後の生」なんて、ほんとうにあるのだろうか。あらゆる宗教が「ある」と宣言しているもの。それを疑えば、どんな信仰も崩れ去ってしまうようななにか。その宗教を信じている人たちすべての人の心の奥底に、ほんとうは存在している、小さな、でもほんとうは大きな疑問。それを押し隠したところで、あらゆる宗教は成立している。いや、宗教だけではない。家族も、社会も、もしかしたら、人間が作り出したものはすべて、どこか疑わしいところがあるのかもしれない。でも、疑えば、すべてが終わってしまうから、ぼくたちは黙りこむのだ。黙りこむことによって、かろうじて、すべては成立しているのだ。

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