一方、さかのぼって昭王の時期は、将軍の斬首の記事がきわめて多い。連衡の張儀は六国の卒(兵士)と秦の卒を比べ、秦卒の勇敢さを述べるくだりで、「左に人頭を挈(ひっさ)げ右に生虜を挟む」と述べている(『史記』張儀列伝)。卒とは徴兵した一般の兵士のことであり、軍官ではない。まさに敵兵の首まで取る秦の兵士の残酷さが恐れられていた。

 次のように、昭王の時期には競い合うかのように敵兵を斬首した。

 一四(前二九三)年斬首二四万[将軍・白起。白起はこの功績で第一二級左更から第一六級大良造に昇級]

 三二(前二七五)年斬首四万[昭王の母・宣太后の弟の穣公魏冄(ぎぜん)]

 四三(前二六四)年斬首五万[将軍・白起。このとき最高位第二〇級の武安君に上り詰める]

 五〇(前二五七)年斬首六千[将軍・王齕(おうこつ)]

 五一(前二五六)年斬首四万と首虜(斬首と捕虜)九万[将軍・摎]

 昭王四七(前二六〇)年には、白起が長平で趙軍を四〇万人も坑殺した。白起は四〇万もの兵士を生き埋めにして殺したことに、罪の意識を持った。その後、出兵の命令を拒否した白起は罰せられ、最高位の爵位を奪われ士伍(無爵)となった。

 そして陰密の地に遷される前に自害を命じられ、差し出された剣でみずから首を斬った。武安君の死は、嬴政二歳のときのことであった。武安君白起の栄光と挫折の体験は、秦王嬴政の戦争にも影響を与えたことは間違いない。

朝日新書『始皇帝の戦争と将軍たち』(鶴間和幸 著)では、李信、羌瘣(きょうかい)、麃公(ひょうこう)、楊端和(ようたんわ)ら名将軍たちの、史実における活躍を詳述している》

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