メディアに露出するときのサービス精神とは一転、ふだんの岐阜インターナショナルテニスクラブでの練習は地味。「とにかく、基本技術の反復練習を大切にしています」とコーチの熊田浩也(写真左)

 06年、愛知県一宮市に生まれた小田は、スポーツが大好きな男の子だった。俊足が自慢で、プロサッカー選手をめざしていた。好きなのはシュート。ゴールを奪うこと。自分が主導権を持ち、決める。攻撃的な哲学はテニスと変わらない。

 世界のスーパースターたちのプレーをYouTubeで視聴するのが好きだった。

「いつか日本代表になって、世界に羽ばたくんだ。そんな憧れの目で見ていました」

 そんな大志を抱いていた少年が、最初に左足に痛みを覚えたのは小学2年生の終わりごろだった。「ひねったかな。それとも筋肉痛かな、時間が経てば治るだろう」。気楽に考えていたが、一向に痛みは引かない。5月の運動会はリレーの第1走者に選ばれて張り切っていたが、痛い足をかばいながらの走りでは、力を出せなかった。日々の生活では、靴下を履くのもつらくなった。

 15年6月に入り、家の近所の整形外科で検査したところ、左太もも辺りに7センチほどの腫瘍らしき影が見つかった。名古屋大学病院で骨肉腫であることが判明して手術。抗がん剤治療などで9カ月間、入院生活を送ることになった。

 入院中、主治医にパラスポーツの魅力を説かれた。YouTubeでくぎづけになったのが、12年ロンドン・パラリンピック決勝での国枝慎吾の雄姿だった。

 退院し、自宅から近い車いすテニスクラブの練習に参加するようになった。テニスにおける最初のコーチは、諸石光照(57)だ。30歳を前に手足などの神経がまひして筋力が落ちるギラン・バレー症候群を発症した諸石は握力が弱いため、ラケットを握る右手をテーピングで固定してプレーする。車いすテニスでは障がいが重い「クアード部門」で戦う。21年の東京パラリンピックの混合ダブルスで銅メダルを手にした。

暮らしとモノ班 for promotion
香りとおしゃれ感を部屋にもたらす!Amazonでみんなが「欲しいアロマディフューザー」ランキング
次のページ