秦に反転攻勢したきっかけは、趙王遷二(前二三四)年、秦の桓齮(かんき)将軍による趙将扈輒(こちょう)軍の斬首一〇万の屈辱であった。李牧は将軍の上に立つ大将軍となり、秦軍を宜安(ぎあん)と肥下(ひか)の戦いで破り、桓齮を走らせた。この功績で李牧は武安君に封ぜられた。

 二度目は前二三二年の番吾(はご)の戦いであった。李牧軍は秦軍を撃破し、韓、魏の国境まで追った。ここまでの戦いは趙都・邯鄲(かんたん)の北部で、李牧の戦い慣れた地盤の代に近く、李牧の機動力の方が秦軍よりも優れていた。秦軍は占領郡の泰原郡から一方向だけの正面突破であった。

 秦から見れば二度の敗北を経て、始皇一八(前二二九)年の王翦(おうせん)の総攻撃となる。王翦軍は従来と同様、泰原郡から平地に下り、同時に楊端和軍が占領地の河内の南から邯鄲を攻撃、羌瘣もおそらく占領郡の東郡から邯鄲に迫った。

 李牧と司馬尚が迎撃した。李牧は当初はしばしば秦軍を走らせ、『戦国策』によれば秦将の桓齮を殺したという。

 李牧と司馬尚は善戦したが、讒言を受けて退陣を迫られ、李牧は王命を拒否すると、王は密かに捕らえ斬殺した。代わった趙葱(ちょうそう)は王翦に殺され、加勢した斉の将軍・顔聚(がんしゅう)も逃亡した。

 李牧の最期は前二二八年。大将軍となりながらも、李牧に苦しんだ秦が反間(スパイ)を趙に送り、それによって趙の郭開(かくかい)が讒言したために、李牧は自国の趙王に誅殺された。その翌年に趙王の遷(せん)は捕虜となり、趙は滅ぶことになる。李牧が生きていたら、形勢は少々変わっていたかもしれない。

《朝日新書『始皇帝の戦争と将軍たち』(鶴間和幸 著)では、李信、蒙武、羌瘣(きょうかい)、桓齮(かんき)、龐煖(ほうけん)ら名将軍たちの、史実における活躍を詳述している》

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悲劇的な李牧の最期