鈴木は家族の姿に「さまざまな価値観の交差点」を見たという。
そうか、そうかもしれないなぁと思い、少し寂しいと感じながら観始めた僕はしまいにゲラゲラ笑い、少し泣いた。そこにあったのは紛れもない家族の風景だった。
意を決して日頃のもやもやを開陳し、それぞれの事情を話し合い、喧嘩し、「ありがとう」と感謝しあい、新しい家族のあり方を模索する芝居だった。
そこで気づいたのは「家族」と「家」は違うということ。
僕はラジオ局に勤めているが、「相談があるんだけど」とスタッフの一人が飲み会の席で呟いた。彼女はシングルマザーで、来年就職を控えた大学生の娘と暮らしている。
「娘もいずれ旅立つ。私は一人になる。今さら実家に戻ることもないだろうし。番組スタッフみんなで一緒に『家族』になれないかなって。ほら、遠くの親戚より近くの他人って言うでしょ」
同性婚法制化や選択的夫婦別姓制度の導入に異を唱える自民党の根幹にあるのは「伝統的家制度の保守」なのだろうが、この「伝統的家制度」って言葉に柔らかいイメージはない。何やらいかめしく、マッチョである。父権に象徴される昭和的上下関係、ジェンダーの壁。そんな言葉を連想してしまう。
「家」ってなんだろう。「家族」って何だろう。家とは物理的な器だが、家族は器ではなく、つながりを示すものではないか。今度のお盆では「家族」について家族みんなで車座で話すのもいいかも。ちょっと照れるけど、老いも若きもいろんな意見が出て、旨い酒が飲めたらしめたものだ。
(文・延江 浩)
※AERAオンライン限定記事