若い男性社員と飲むと「彼女はいるの?」と聞く癖があった。くつろがせる狙いで、いると電話をさせて自分も出て話したが、いまの世では無理だ(写真:山中蔵人)
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 日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2024年7月8日号より。

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 1987年3月、横浜研究所(横浜市西区)の半導体デバイス開発室主任研究員になった。33歳。任務は、脚光を浴び始めた光ファイバー通信でファイバーの中を通す、光信号を発光する光デバイスの開発だ。

 入社して約10年、米国企業への2年半の出向を挟み、電力の送配電や電話網などに使う電線の芯になる裸の銅線を製造してきた。理系社員の異なる分野への転勤は例が少なく、驚いた。しかも光ファイバーは日本でも先駆けてつくっていたが、光デバイスは通信機器や半導体に実績を持つ電機・電子メーカーが力を入れ、古河電工は後発だ。

 でも、銅線の通信網は光ファイバーへ置き換えられ、先行きは厳しい。転進は、光デバイスを新事業に育てるのに、製造現場で積んだ経験が買われた。

現場・現物・現実 研究者らに説いた「ものづくり」の基本

 赴任すると、受け取った電気信号を光信号へ換えて送る超小型の半導体レーザーを標的にして、開発要員を集めた。ただ、光分野は、大学を出て数年の研究者しかいない。研究者は、最高水準のものが1個できれば学会で発表できるし、論文も出せるから満足して、実用品の量産に関心が薄い。だが、与えられた目標は、光デバイスをいかに高品質・高機能で安く、どこよりも早く提供して稼ぐことだ。意識改革が必要だった。

 基本から、説いた。「現場」で同じ製品をつくるために製造装置の状態を一定に保ち、作業手順を決め、できた「現物」の信頼性を評価し、どういう課題があるか「現実」を把握する。「ものづくり」では当たり前のことで、千葉の裸線工場で身に付けた現場・現物・現実の「3現主義」の徹底だ。

 実は、自分も入社後に意識改革をされた。裸線工場は、原料を溶かして銅線にするまで切れ目のない、米国で発明された製造法を採り入れていた。「技術者らしく格好いい仕事ができるな」と期待したが、10人ほどの生産技術課に大卒新人の配属は数年に1人。現場の作業者と打ち解けるのは簡単でなく、作業長に電話で製造条件の変更を頼んだら「電話でなく直接、言いにこい。現場をみろ」と怒られた。「3現主義」の始まりだ。

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