銅線をつくるのに溶かした銅は温度が約千度あり、そばでの作業は「汚い、きつい、危険」の「3K職場」と言われた。でも、現場の面々は自負を持って「ものづくり」に取り組んでいる。「3K」の解消に、遠隔操作にすればいいと考え、自動化も進め、作業者が冷房の利いた部屋で操作できるようにした。「人が主役」への改善に、現場との一体感ができていく。
「人が主役」は子どものとき、私鉄の電気技術者だった父・照由さんに学んだ。父は若いころから家族を養い、人に助けられた経験も多く、人を大事にしていた。生活が厳しいのに、戻ってこない金でも貸した。その背中をみて、生き方を教わった。
父には、技術者らしい物の見方やこだわりもあった。当時のテレビはよく故障し、とくにチャンネル部がすり減って、ずれた。分解して修理するのを手伝わされ、機械の仕組みを教わった。分からないことを質問すると、家にあった小さな黒板に白墨で書いて説明してくれた。柴田光義さんが、ビジネスパーソンとしての『源流』になった、と挙げる日々だ。
横浜でレーザー半導体の開発を始めて4年目、光デバイスの第1号が誕生し、発光装置の量産へつながった。世界でインターネットの利用が広がり、携帯電話も普及。海底ケーブルで世界をつなぐ光ファイバー網は、数限りなく発光装置を求めた。
供給できたのは、古河電工を含めて世界で3社。受注は右肩上がりに増え、97年に30億円だった売上高は98年に60億円、99年は130億円、2000年に400億円と、倍々ゲームが続く。肩書も、課長から室長、光デバイス事業の全責任を負う部長へと昇格する。この間、「3現主義」に「なぜだろう」の原理と「本質は何か」の原則の「原」を加えて、「5ゲン主義」が生まれた。さらに現状打破の「現」も入って「6ゲン」となっていく。『源流』からの流れが、勢いを増していた。