工場排水の水銀毒に傷つき病んだ故郷水俣の怨を、40年に亘り書き継いだ石牟礼氏の大著『苦海浄土』が生まれるべくして生まれたことをあぶりだすのが本巻である。『苦海~』に伴走する形で書かれた作品群から6作(幼児期回顧「椿の海の記」、能「不知火」など)を収める。
「椿の海の記」(1976年)を白眉、と思う。ここで著者は4歳の少女に戻る。昭和初期の故郷・水俣の日々。海山川、草木、小動物、岩や石にも神が宿る、と自然への畏敬と感謝を教える大人がいて無垢な童女は異界と自在に交信する術を学ぶ。雪の夜道を徘徊する祖母の姿に感じた謡曲の老女さながらの荘厳の美。娼家に売られた娘たちや、共同体が遠巻きにした人々に抱いた不思議に近しい思い。魚を商う浜の漁師の女房たちの快活な売り声を氏は、稗田阿礼を思わせる記憶力で呼びさます。
 氏は、日本文学の本家跡取りだった。その資質と語り部の文体を以て、この国の近代の負の歴史を文学として昇華させたことを選者は、既刊世界文学全集lllに収録の『苦海~』と本巻を対置する試みでより鮮やかにした。

週刊朝日 2016年1月22日号

[AERA最新号はこちら]