豊島沖海戦を描いた錦絵
日本側の連射砲が清艦隊に集中砲火をする様子。戦況を伝えるこうした錦絵に、国民は熱狂した。
(国立国会図書館所蔵)
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 明治維新から30年足らずだった日本は、当時、侮れない存在として「眠れる獅子」と称されていた清とどのように戦ったのか。誰も予想しえなかった日本勝利で終わった日清戦争を、テレビでもおなじみの河合敦さんが8回にわたって解説する。第2回は「豊島沖海戦1894年7月25日」。 

【図解】日清両国の動きを見る

豊島沖海戦1894年7月25日

 日清戦争は、ある意味、陸奥宗光外務大臣が積極的に動いて誘発させた戦いだといえる。

 それは、国内の政治的混乱を収拾するためであった。

 この時期、陸奥外相が進める列国との不平等条約改正案に対し、立憲改進党や国民協会などが対外硬六派を結成して反対していた。対外硬六派は議会の過半数を占めており、不平等条約を励行するよう政府に要求したので、改正交渉は暗礁に乗り上げていた。

 現条約では外国人の居住や活動範囲は制限されていたが、実態として外国人は国内で自由に生活していた。そのため現条約を厳しく適用すれば、多くの外国人が移転を余儀なくされ、不自由を強いられる。そうなれば、列国のほうから条約改正を切り出してくるはずだというのだ。

 なお、排外主義の立場から現条約を支持する議員も少なくなかった。条約改正が実現して内地が雑居となり、外国人が国内で大規模な商活動を展開すれば、日本の諸産業は乗っ取られてしまうと真剣に心配したのである。

 衆議院の第5議会では、条約励行建議案が大日本協会から提出され、同案の衆議院通過が確実になった。

 このため伊藤博文首相は、衆議院を解散した。総選挙の結果、与党の自由党は躍進したが、過半数を制することはできず、明治二十七年(1894)五月の第6議会では、内閣弾劾不信任上奏案が可決されてしまった。そこで伊藤は六月二日、再び衆議院の解散を断行した。

 すでにこのときから陸奥外相は閣議で主戦論をとなえ、強引に開戦に持ち込もうとしていた。政府の強引な命令の多くは、陸奥から出ていたといっても過言ではなかった。実際、明治天皇は戦争に反対しており、伊藤首相も開戦によって列国の干渉を招くのを恐れ、消極的な言動が目立っていた。

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