けれど陸奥は、国内の政治危機を打開するには戦争しかないと考えていた。判断の善悪は別として、その予想は見事に的中する。
これまで執拗に政府に抵抗してきた野党は、戦争が始まったとたん、大きく態度を変えた。
開戦後に開かれた第7臨時議会において、政府の出した臨時の軍事予算と軍事公債案を全会一致で可決し、挙国一致体制をもって、政府の作戦を支援する姿勢をみせたのだ。大国との初めての全面戦争において、内輪もめをしている時ではないと考えたのだろう。
七月二十五日未明、豊島沖においてついに日清戦争の火ぶたが切られた。2日前に佐世保軍港から出撃していた日本の連合艦隊のうちの第1遊撃隊が、豊島沖で敵の北洋艦隊と遭遇し、戦闘状態に入ったのである。
日本の第1遊撃隊は、吉野、秋津洲、浪速の3隻。対して清側は、済遠、広乙、操江、高しょうの4隻。清の艦隊は高陞に清兵1100名を乗せて牙山に輸送する途中であった。当日は霧が濃く、第1遊撃隊は合流予定の味方の艦船だと思って近づいたところ、敵艦だったことから戦いが始まったとされる。
海戦は、第1遊撃隊の勝利に終わった。清の巡洋艦・済遠に打撃を与えて戦線離脱させ、広乙を座礁させて自爆に追い込み、高しょうを撃沈。降伏した操江を拿捕したのである。
ちなみに高しょうは、武装した清兵を多数乗せていたが、実はイギリス船籍の商船だった。巡洋艦・浪速の艦長である東郷平八郎は、高陞を臨検してイギリス人の船長を拘留し、続いて清兵を捕縛しようとした。
ところが同船がこれを拒絶したため、この船は清軍に不法占拠されたと見なし、撃沈したのである。
これにより、清兵1000人以上と乗組員が犠牲となった。沈没時、日本海軍はイギリス人を全員救助したが、おぼれている清兵を見殺しにしたといわれている。
さすがの陸奥宗光外相も、浪速がイギリス船を撃沈したと聞いたとき、イギリスが日清戦争に干渉してくることを想像して焦ったという。