38歳でメジャーに挑戦したのが、NPB通算173勝の桑田真澄だ。
巨人最終年の06年、桑田は4月13日の広島戦で2年ぶりに勝利投手になったが、右足首捻挫などで同29日に登録抹消。そのままシーズンを終えると、「18番はチームに貢献できる人がつけるべき。僕は今、それができない。出ていかなくては、と思った」と自らの意思で巨人を退団、長年の夢だった米球界挑戦に一歩を踏み出した。
12月20日にパイレーツとマイナー契約。翌07年のキャンプに招待選手として参加した桑田は、オープン戦でも好投。ジム・トレーシー監督も「メジャークラスでやっていける」と太鼓判を押した。
ところが、開幕目前の最終登板となった3月26日のブルージェイズ戦の8回1死一塁、中前安打を打たれた桑田は三塁バックアップに走った際に、三塁の判定のため、本塁からダッシュしてきた球審と激突。右足首の靭帯を損傷してしまう。
3Aの故障者リストに入った桑田は、懸命のリハビリの末、6月2日に3A初登板。さらに中継ぎ不足のチーム事情から、同9日にメジャー昇格をはたした。
翌10日のメジャー初登板、ヤンキース戦では、松井秀喜と対決。6月21日のマリナーズ戦では、イチローを空振り三振に打ち取る。独特のカーブは、“寿司ボール”と命名された。
だが、その後は打ち込まれる場面も多くなり、8月13日のジャイアンツ戦で1回5失点と炎上した直後に戦力外通告を受けた。登板19試合で0勝1敗3ホールド、防御率9.43だった。
翌08年も再びパイレーツとマイナー契約を結び、キャンプに参加したが、最終候補の4人が若手優先と決まると、「野球に対して、野球選手としてできることは、すべてやり切った」と現役を引退した。
愛着深い所属球団の消滅に伴い、新たな夢をメジャーに託したのが、04年まで通算307本塁打を記録した中村紀洋だ。
同年のシーズン終了後、入団以来13年間在籍した近鉄がオリックスとの合併で消滅すると、中村は「近鉄を日本一にしたいという夢がなくなり、メジャー挑戦という気持ちになった」と2年前に契約寸前で断念したメジャーへの思いを再び口にした。