ここでは紙面の都合で自由だけ取り上げよう。ロックが唱える自由は「束縛からの自由」「規制からの自由」だ。言い換えれば規制緩和で、これは現在の新自由主義的な政策とも相性が自由と言えるだろう。しかし、ロック的な自由は、アメリカの独立に影響を与え、さらに奴隷制の廃止を導いたことも事実である。ともあれ、ロックの自由は「~からの自由」である。だが、ルソーが唱える自由はかなりの難物だ。
ルソーは、各個人は自分をいったん共同体に譲り渡すことが肝心だという。そして、各個人が自分を共同体に融合させることで、共同体を完璧にひとつにし、共同体の意志を自分の意志にしてから、また個人に返ってくる、このような状況を生み出すことで人は真に自由になれる――みたいなことを言っている。わかりにくい。おおよそ確実なところを言うと、ルソーが言う「真の自由」は、共同体の一員として法を守り、他者と協力し合うことによって生まれるものなのである。
「この国の意志を自分の意志にしようぜ」
ルソーが自由と呼ぶもの。それは、僕らが自由という言葉から連想するものとはかなりちがう。自由と聞くとつい僕らは「勝手気ままにふるまえること」をイメージしがちだけど、ルソーに言わせれば、それは欲望の奴隷状態であって、自由ではない。森の中の野生の狼のような自由である。それに対してルソーは、人間(市民)よ、自由になるために、まず全体へ融合せよ、と唱える。
さて、泉房穂さんは、なぜこのようなややこしく問題含みのルソーをあえて自書の中で取り上げたのだろうか。小説家ならではの妄想力を膨らませて言わせてもらえば、「この国の意志を自分の意志にしようぜ」と若者に呼びかけたかったからだろう。「君は、政治なんてウザくてダサいものから遠く離れて無関心でいることのほうがカッコよくて自由だと思っているのかもしれないが、それは本当の自由じゃないんだよ。本当の自由、市民としての自由を手に入れるためには、もっともっと政治についてコミットし、みんなの意志を自分の意志にできるような政治を実現すべく努力しなければならない」と語りかけたいのではないか。
ちなみに、冒頭で挙げたテレビ局デスクのコメント「お灸を据える」はロック的である。ロックの社会契約論は、統治機関に権力を条件付きで信託する、要するに“お任せする”のである。デスクは「今回はいろいろあったのでお任せできないけど、これっきりってわけじゃないからね」というふうに有権者のマインドを解説したわけである。じゅうぶんにあり得る見解だろう。しかし、それじゃだめだ! と叫ぶのがルソーである。だからこそルソーリアンの泉さんにとっては聞き捨てならない発言だったのだ。そして、この際だから、自分の臆測をさらにつけ加えさせてもらえば、泉さんはまた政治に復帰するつもりなのだと思う。この本は、未来の有権者への呼びかけとして書かれたものなのだ。それゆえに、いくら浮いたとしても、冒頭にはルソーを置かねばならなかったのだ。