首都カブールの壁に描かれていた中村医師の肖像画。タリバン復権後に白く塗りつぶされてしまった(2020年1月25日)
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 アフガニスタンで中村哲医師が殺害されてから4年半。実行犯や襲撃の背景は徐々に明らかになる一方、共に亡くなった5人のアフガニスタン人のことはほとんど語られてこなかった。痛みにどう寄り添うか。日本側の人権意識が問われている。AERA 2024年6月3日号より。

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 アフガニスタン情報機関は事件の約1カ月前、中村哲医師を狙った殺害計画があると警察本部を通じて護衛のリーダーだったマンドザイ(36)に告げていた。同情報機関は中村医師本人にも事件直前まで繰り返し「脅威が迫っている」と伝え、事業を止めて帰国するよう求めていた。だが、中村医師の知人によると、中村医師は同情報機関に対して「自分はもう年なので恐れるものはない。自分の仕事を続けるだけだ」と、事業継続への覚悟を語っていたという。

 中村医師への脅威情報は、これが初めてではなかった。事件の3年ほど前、私が同国東部での取材を準備していた時にも、中村医師を狙った襲撃計画の情報があり、リスクが高まっているとみて渡航を見合わせたことがあった。外交筋は当時、

「防弾車を使ってほしいと何度もお願いしているが、そのお願いは聞き入れられない。中村さんには中村さんの、我々とは相容れない安全に対する考えがある。いや、考えというよりも、哲学というべきかもしれない」

 と話していた。事件前にはマンドザイも妻ナフィサに「ドクター・ナカムラが警備を付けずに出て行ってしまうことがある」と悩みを打ち明けていた。丸腰であることが銃を向けられないための最善の策だと信じる中村医師と、銃を構えなければ攻撃を止められないとみるマンドザイら護衛の間には、考え方の違いがあった。

 もっとも、中村医師が防弾車に乗っていたとしても、犯行グループは手法を変えて目的を遂行しただろう。道路に爆弾を仕掛けたり、深夜に定宿を襲ったり、方法はいくらでもあるからだ。

事前につかめた脅威情報、やり場のない怒りと悲しみ

 犯行方法を絞り込むためだったのだろう。犯行グループは事件の2カ月近く前から中村医師の尾行を始めていた。一連の動きは『中村哲さん殺害事件 実行犯の「遺言」』(朝日新聞出版)で詳しく記録したが、ナンガルハル州の利権を握る軍閥の頭領で、元州警察長官のハズラット・アリは、こう指摘している。

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