1582年6月2日(旧暦)、明智光秀に本能寺で討たれた織田信長(PIXTA)
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 1582年6月2日(旧暦)、織田信長が京都・本能寺で明智光秀の襲撃に遭い、自刃した。光秀はなぜ謀反を起こしたのか? その理由は諸説あるが、近年は、四国・長曾我部元親との関係が背景にあるという説も浮上している。

 X(旧Twitter)で歴史上の偉人による架空のタイムラインなどを投稿し大反響を呼んだネット投稿者・スエヒロさん。NHKのSF時代劇『天下人のスマホ』等にも制作協力として携わった彼の新刊『戦国時代のタイムライン』(監修:本郷和人東京大教授)より、信長らのやり取りの一部を抜粋・編集してお届けする。

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織田信長:日本史において最も有名な事件のひとつであるのが、1582年(天正10年)6月2日に発生した「本能寺の変」だな。本能寺に滞在中のワシに対して、家臣である明智光秀が謀反を起こした事件だ。

明智光秀:僅かな手勢と滞在していたため手薄だった信長様に対して、1万3000人もの軍勢を率いて私が襲いかかっちゃった事件ですね。寝込みを襲われた信長様は、本能寺に火を放ち最後は自害。天下統一の夢は、私の裏切りで潰えてしまったわけです…。

豊臣秀吉:これには本当に驚きました…。当時、織田勢は天下統一を目前にしており、中国・四国の平定などを推し進めている最中でした。私は中国征伐、三男である信孝様は四国征伐に取り組んでおり、殿のお近くにいなかったのですよね…。

織田信長:ふむ…。柴田勝家は北陸方面、滝川一益は関東方面に遠征しており、京周辺は本当に手薄な状態だったわけだ…。

明智光秀:おっしゃるとおり。京にいた信長様の周辺が手薄な状況で、近江や丹波などを支配していた私は、自由に大軍を動かせる立場にありました。そんな折「中国攻めを援護せよ」との命も下り、軍を動かす口実もできちゃったのですよね。いま思い返せばめちゃくちゃ謀反フラグが立っている感じではありますね。

里村紹巴(さとむら・じょうは):どうも、連歌師・里村紹巴です。光秀様は本能寺の変の直前に、愛宕山での連歌会に参加されたのですが、その時、「ときは今 あめが下しる 五月かな」という句を詠まれておりますね。これは内容的に「謀反の匂わせ」とも言われています。

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「敵は本能寺にあり」は俗説!?