ヒコロヒー『黙って喋って』(朝日新聞出版)
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 あの居酒屋で私に頭を下げていた理玖、まさやさんに電話して嬉しそうにしていた理玖、あれから一ヶ月も経っていないのに、どうしてこんなにもまた自分勝手にないがしろにされるのだろう、そしてどうして私はあの時の理玖を許したのだろうかと自問し、怒りとも悲しみともいえない、ひたすらに憂鬱な時間がやってくるのもまた、いつものことだった。

《わかった。ゆっくり休んでね》

 怒ることも悲しむことも面倒になり、彼を理解しようとすることにも疲れ、自分を理解してもらおうとすることも諦め、理玖に対して自分のなかでまたひとつ何かがぱきりと欠けていく。欠け続けているこれは、あと何回でなくなってしまうのだろうか。そしてこれほどに欠けていればきっともう、得体の知れない「これ」の修復は不可能だということにも、私は気がついている気がする。

《ごめんね。本当に。ありがとう。おやすみ!》

 ぱつん、という音が、はっきりとおでこのあたりで鳴った。これは初めてのことで、知らないことで、米印ではなかった。そこから決壊したようにして、一気に感情が湧き上がり、そしてそれらは私の足元へとすうっと流れていき、体温は持っていかれ、全身がさあっと冷たくなるのをしっかりと感じた。

 理玖は優しかった。好みではないタイプだったけど好きだと言われてから、どんどん惹かれていった。決して私が嫌な思いをするようなことはしなかったし、してしまったら一生懸命に謝ってくれていた。家に来る時に私の好きなパン屋に寄ってジャムパンを買ってきてくれるところも、誕生日には慣れないサプライズを恥ずかしげにしてくれたところも、私の転職先が決まった時にお祝いだと言って薄い紫色のシフォンのワンピースを買ってくれたところも、すごく嬉しかったし、好きだった。でもそれは、もう随分前の理玖のことだった。

 嘘もつかず、信用できるところが好きだったけど、今はもう何度も嘘をつかれ、そのつど色々なことをごまかされ、何も信用できなくなってしまっていた。もう一度頑張るからと言って、もう一度頑張られたことなど、結果的に一度もなかった。そうして同じことを何度も繰り返され、ようやく気づいた。私はもうずっと長い間、彼に大事になどされていなかった。そして、どうやら、今もなお。

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もう、どこにも、ぱつんと、なかった