青い雨がっぱからちょこんと顔を覗かせながら近づいてくる桐谷さん(撮影/小山幸佑)

 と目を細めるが、その見立てはおそらく違っている。桐谷さん自身が最強のコンテンツなのだ。ご本人は普通に話しているつもりだろうが、聞く側は絶妙におもしろい。

 桐谷さんが将棋で四段を取得し、プロになったのは25歳の頃。高校卒業後に日本将棋連盟の新進棋士奨励会(プロ棋士の養成機関)に入会してから7年4カ月後だった。

「親からの仕送りもなく、当時はアルバイトで食いつないでいました。将棋のレッスンに行ったり、プロ棋士の対局の記録係をしたり。将棋専門誌の発送を手伝って日当をもらったこともありました」

 プロ昇格と同時に収入は格段に増えた。

「収入が増えても、奨励会時代の貧乏暮らしのままぜいたくはしなかったので、毎月何十万円というペースでお金が残りました。そのお金は定期預金にしてましたね」

証券マン20人と将棋

 桐谷さんが株式投資の世界と接点を持ったのは1979年のこと。証券業界の福利厚生団体「東京証券協和会」の将棋部の師範になった。30歳になる少し前だった。

 協和会は東証近くの日本証券業協会のビルにあった。昼休みや株式市場が引けたあとに証券マンが集まり、会社の枠を超えて将棋盤を囲む親交の場だった。

「月1回のペースで将棋を教えに行ってました。20年くらい続けたかな。『20面指し』と言うんですが、将棋盤をずらりと並べ、20人を相手に同時対局してお手本を見せることもありましたね」

 みんなと仲良くなり、箱根や山中湖の保養所への宿泊旅行にも同行するようになった。証券業界にすっかり溶け込んだかに見えた桐谷さんだが、明確に一線を引いている時期もあった。

「最初の5年間は、将棋のコーチを終えたらすぐに『さようなら!』です。午後8時には帰るようにしていました。だって株はギャンブルだから。ギャンブラーと付き合ってはいけないと本気で思っていました」

 桐谷さんは証券マンを敬遠したつもりでも、証券マンからは好かれていたようだ。

「1984年の春、『協和会で将棋を教えていた人の部下という人』から電話がありました。私の住んでいた阿佐谷の店舗に支店長として赴任するので、うちにあいさつに来たいと言うんですよ」

暮らしとモノ班 for promotion
もうすぐ2024年パリ五輪開幕!応援は大画面で。BRAVIA、REGZA…Amzonテレビ売れ筋ランキング
次のページ
桐谷さんが初めて買った金融商品は