とはいえ、政治センスもなければ、勘も悪い男である。いったい道長は、どうやって権力のトップにまで上り詰めたのか。いろいろなタイミングが合致したり、状況に流されやすい性格が、幸運を呼んだりする。

 だが何よりも重要なのは、幸運が訪れたり、周囲から認められたりしても〝凡百の政治家のようにこれを自分の力だと思い上がらない〟平凡児の取柄を、常に忘れないことである。だから道長は、政治の平衡感覚を、しだいに獲得することができた。まだ幼い娘の彰子を入内させるときも、倫子と共に逃れられぬ状況を嘆く心を持てた。後半生になって、権力の魔に取り憑かれたが、それも道長らしい。とにかく作者の創り上げた道長像は人間臭いのである。

 それにしても今回、この原稿を書くために数十年ぶりに本書を再読して、あまりの読みやすさと、分かりやすさに愕然となった。なぜ、平安中期の時代の流れや政治状況、各種の史実が、すんなりと頭に入ってくるのか。

 理由のひとつは、物語の主な焦点が、夫婦・親子・兄弟などの〝家族〟となっている点だ。たとえばこの長大な物語は、まだ箱入り娘の倫子の両親が言い合う場面から始まる。娘が行き遅れになることを心配する母親と、いつまでも娘を手元に置いておきたい父親の姿は、現代と通じ合う。しかも二人の会話に、史実が巧みに織り込まれているのだ。多くの人が持っている、お馴染みの家族への感情に誘われ、いつのまにか平安中期の世界に入り込んでしまうのである。

 さらに付け加えれば、当時の貴族社会が、よく現代の社会や会社に準えられている。貴族社会は官僚社会であり、リタイアするには出家するしかない。出世レースも、それに奔走する人々の心も、現代の社会人と変わらないのだ。それを作者は、地の文章で現代語を使うことを厭わず、的確に表現していく。どんな時代でも共通する、人間と社会を深く認識し、その上に、やはり深く解釈した時代と、血肉を持った人物を載せる。ゆえに、永井路子の歴史小説は、私たちの共感を呼ぶのである。

 もう一冊、『望みしは何ぞ』にも目を向けたい。道長の四男の能信の〝望みしもの〟を描いた長篇だ。父親を含めて周囲の人を、能信は冷めた眼で見ている。鷹司系である倫子の子に比べ、高松系である明子の子である自分たちは冷遇されていると思っているからだ。その鬱屈が能信を、ある野望に走らせるのである。

 その結果、はからずも院政の道が拓けるのだから、歴史の流れとは面白い。現在、朝日時代小説文庫で両作品が復刊されているので、順番に読むといいだろう。そうすることによって、歴史の大きなうねりと、積み重なる人々の想いを体験できるのである。

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