それにもかかわらず、というか、いやむしろそれゆえにというか、姫君がおちぶれて女房となる例は、伊周の言葉にもあったとおり実際に多かった。父が亡くなったり家が傾いたりすると、足元を見られ出仕を持ちかけられるのだ。雇ったのは、多くが藤原道長とその娘たちである。出自の高貴な人物を雇うことで、自分の家の格の高さを誇示する。それが道長の方法だった。おそらくは伊周の頭にも、最初から道長の顔が浮かんでいたに違いない。彼が雇い入れて自家や娘たちの女房としたのは、伊周の次女のほか、例えば故太政大臣・藤原為光(ためみつ)の四女と五女、道長の長兄で故関白・藤原道隆(みちたか)の娘、また次兄で故関白・藤原道兼(みちかね)の娘などだった。うち為光の四女は花山(かざん)法皇(九六八~一〇〇八)の愛妃でさえあったのに、法皇の死後、道長家に雇われ、やがては道長の寵愛を受けるようになった。妹の五女は道長の娘・妍子(けんし)の女房として雇われたが、やはりやがて道長の妾(めかけ)となり、彼の子を妊娠した。姉妹とも父と夫を亡くし、庇護者を失ったゆえの出仕だった。だが道兼の娘は、生まれる前に父を亡くしてはいたものの、母親は右大臣・藤原顕光(あきみつ)と再婚していたし、兄もすでに壮年の参議であり、生活に困っている訳ではまったくなかった。『小右記』によれば、彼女の母は娘のために「婚活」しており、公卿クラスのセレブに縁づかせたいと胸を膨らませていたようである。それが、破れた。道長一族に目をつけられれば、断るすべがなかったのだ。『栄華物語』(巻十四)は、道長の妻・倫子(りんし)から「三女の威子(いし)の女房に」との文が来たとき、姫君も母も女房も、皆が大声で泣いたと記す。そこへ兄の兼隆(かねたか)がやってきて、自分も涙を流しながら「嫌だなどと言えば、私が困ることになる」と、承諾の返事をしてしまう。継父も、道長に次ぐ権力者でありながら、何の手も打ってくれなかった。「尼になりたい」とまで本人が思い乱れても、無駄であった。彼女は結局、娘が生まれた時のためにと亡父が用意してくれていた極上の調度の数々を持参し、彼女付きの女房十人、童女二人、下仕えと共に出仕した。
彼女の例に照らせば、道長家以外ならどんな姫君も、女房に転落することがありえた。雅びやかな姫たちさえもが、見えない崖っぷちの上を歩いていた。そんな貴族社会の無常は、現代社会が抱く不安と、そう変わらないのではないだろうか。