ウィーンのリサイタルの直前に風邪をひかなかったらどうなっていたか。それはぜんぜんわからない。(もう一つの人生があったとして)よかったのか悪かったのかも、今と比べようもない。でも、神様が何かお考えがあって、そうしてくださったんだと思っています。
――どん底の生活は、何年も続いた。転機は、ヨーロッパから日本に帰国してから4年後の99年2月。NHKの「フジコ~あるピアニストの軌跡~」という45分の番組だった。
日本に帰ってきてからは、毎日、近所を散歩していたわ。向こうではピアノを教えていたけど、こっちでは教える相手がいない。ギリギリの生活でした。生きる気力をなくしていたかもしれない。地獄を歩いているような気持ちでした。
でもね、お友達や母の教え子のみなさんが、聖路加国際病院で週に1回ぐらい演奏をさせてくれたり、母校の東京藝大のホールでコンサートを開いてくれたりして、だんだんたくさんの人が聴いてくれるようになっていたの。
98年の暮れ、近所の教会に置いてあったパンフレットに「待っていなさい。必ずそれは来ます」って教えが書いてあったのを見たの。やがてあなたの時代が来ますからって。そのときは、神様、その話は知っていますが、私のことはお忘れになっちゃったんですね、と思った。
――それから1週間ぐらいたって、NHKの人から連絡があった。
番組が放送されたのは、とても寒い夜だったわ。放送が終わった直後から局にはすごい反響があったらしく、ウチにも翌日からどんどん電話がかかってきました。
その後の活躍は、誰もが知るところ。6月から、初のドキュメンタリー映画「フジコ・へミングの時間」(監督 小松莊一良/配給 日活)が公開中。パリや京都の自宅での普段の暮らしから、世界を旅する演奏活動まで今の“素顔のフジコ”が収められている。
自分のドキュメンタリーを見るのって恥ずかしいわね。もちろん、演奏には、自信を持ってきたわ。でもね、こんなふうに注目されて、認められて当然とは思っていません。
先日もある演奏会で、弾き終わったときに「ミスだらけでごめんなさい。拍手をもらう資格はないです」って謝ったら、その途端に会場じゅうの人が立ちあがって、「ブラボー!」って拍手されちゃって。その場から逃げ出したくなったわ。
ピアニストの中には、何分でこれだけ弾けるとか、どれだけ正確に弾けるとか、そんなことを自慢する人がいるけど、スポーツじゃあるまいし。正確なのがいいのなら、機械に弾かせればいいのよ。私は、あたたかい演奏をしたい。
レパートリーが少ないと、よく言われるから、もっといろんな曲をやればよかったなと、ちょっと後悔することもある。でも、欲張らなくても、世の中には山ほど曲があって、ピアニストも山ほどいる。それぞれが得意な曲をやればいいじゃない。
ピアノも人生も、少しぐらい間違えてもいい、完璧じゃなくてもいいっていうのが私のポリシー。楽しいことばっかりじゃなくて、悲しいこともあったほうが、天国に行ったときに少しおセンチな気持ちにもなれていいじゃない。笑ってばっかりだったら、きっと退屈よ。
(聞き手/石原壮一郎)
※週刊朝日 2018年7月27日号