ニューヨークに3年8カ月いて、中央研究所にあった開発渉外部へ戻る。次は、海外の製薬会社から特許を買い、日本で新薬をつくって売る「導入」の仕事だ。すべての領域の新薬を自社でつくるのは、欧米の巨大な製薬会社でも無理。「導入」も大事な手法で、「世の中には困っている人がいるのだから」という母の言葉にも、重なる。
1959年12月に仙台市で生まれ、両親と姉の4人家族。父は東北電力の技術者で転勤が多く、小学校に入ったのは福島県会津若松市。「手代木」の姓は会津若松に多く、偶然だが、父の実家もあった。その後、東京へ引っ越し、さらに仙台へ戻って小学校を卒業。宮城教育大学付属中学校から、県立仙台第一高校へ進んだ。
血をみるのが嫌いで「医者になって」との母の願いは無理
父母は何でも自由にさせてくれ、進路などに口は挟まない。ただ、母は息子が医者になることを願っている、と分かっていた。でも、献血をしている人をみると貧血になりそうなほど、血をみるのが嫌い。数学や化学が好きだったので東大理科II類を受けて、薬学部に入る。進路は、同期生の9割が大学院へいくなか、就職に決めた。研究生活が嫌で「研究所以外なら、どこでもいい」という希望を認めてくれたのが、塩野義製薬だ。
94年6月から3年間の2度目の米国勤務を経て、本社社長室課長になった。さらに秘書室長兼経営企画部長に就く。社長は創業家一族の塩野元三氏で、部下に「1を言えば、10が分かるな」というトップダウン型。その相手に選ばれ、「懐刀」のように映ったのか、みんなが壁のようなものを感じて付き合いにくかったようだ。
でも、思い出の一つになる仕事があった。91年に塩野義が開発した高コレステロール血症の治療薬「クレストール」の日本での販売権を、取り戻したことだ。やはり創業家出身で塩野元三氏の前の社長が「世界中で販売するだけの力は、塩野義にない」として、英国企業へ世界中の製造・販売権を渡していた。その結果、世界での売上高から年間に入る百億円単位の特許使用料が、研究開発を支えてきたから、正しかった面もある。