すでに放送された「光る君へ」のなかに、高杉真宙演じるまひろ(紫式部)の弟・藤原惟規(のぶのり)が、「厠(かわや)に行ってくる」と席を立つシーンがあった。厠とは、トイレのこと。樋殿(ひどの)とも呼ばれた。まひろたちが暮らす家は、藤原道長らが暮らす土御門殿(つちみかどどの)のような立派な邸宅ではないが、それでも、トイレを備えていたことがわかる。
平安時代、男性貴族は樋殿に出向いて用を足した。「光る君へ」で女性貴族がトイレに立つ場面が描かれたことはないが、幾重にも衣を重ねて着ていたのだから、さぞ、大変だっただろう。「光る君へ」のストーリーとはほとんど関係ないが、今回は『平安 もの こと ひと 事典』(砂崎良・著/承香院・監修)を引用しつつ、平安時代のリアルなトイレ事情をリポートしたい。
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男性貴族が用を足した「樋殿」は、寝殿造の建物と建物をつなぐ廊下「渡殿(わたどの)」などに設けられた。寝殿造は床が高い。道長は夜トイレに行った際、足を踏み外して地上に落ち、失神したうえに左足をケガしたりしている。
女性貴族は、自室で清箱(しのはこ)という「おまる」を使用した。上半身の重ね着衣装はそのままに、下半身の袴だけすっぽり脱いで用を足したようだ。その箱は薄い布に包むなどして女童(めのわらわ)が運び去り、御厠人(みかわやうど)や樋洗童(ひすましわらわ)に渡して始末させた。
御厠人(みかわやうど)はトイレの掃除を担当した下級の使用人。樋洗童(ひすましわらわ)は同じくトイレの洗浄を担当した童(子ども)のことだ。樋洗童は使者の役割も務め、『和泉式部日記』には、「樋洗童して『右近の尉(じょう)にさし取らせて来こ」(樋洗童に「この手紙を右近の尉に渡して来なさい」と命じて派遣した)という記述がある。
イベントなどで客(主に男性)を大勢招待したときは、男性も大壺(おおつぼ)というおまるを使用した。床板に穴をあけて下におまるを置き、トイレにすることもあった。夜、女房のもとへ通っていった際には、「たまたまあいていた床の穴から用を足してしまう」という例も見られた。
排泄物は、溝を掘って屋敷外から引き込んだ水に流し、敷地の外へ排出した。平安京は道路に側溝を設けて水を流し、これを下水道代わりにしていた。