マイナーリーグで抑え投手として活躍した村上さんはシーズン終盤にメジャー昇格を果たす。20歳の日本人青年はアジア人初のメジャーリーガーだった。そのことは村上さんも知っていたが、「そんなに気にしなかった」と振り返る。マスコミから取材を受ける機会がなかったからだ。それでもスタンドのファンは、八回裏にリリーフで初登板した村上さんを大歓声で迎えた。マウンドに向かう村上さんが、「リラックスしないと」と思わずハミングしたのが、当時アメリカで大ヒットしていた坂本九さんの「スキヤキ」(上を向いて歩こう)だった。
目の前でハミングを再現してもらった。何とも切なく、でも勇気づけられる旋律。その時ふと、村上さんの人生の伴走曲のような気がした。
最初のバッターは右打ち。第1球はアウトローいっぱいにストライクが決まった。村上さんが「記念のボールを取っときゃよかった」と振り返るほど会心の一球だった。三振、ヒット、三振、ショートゴロで八回裏を抑えた。九回表の味方の反撃は及ばず、そのままゲームセット。だが、村上さんは「九回も投げたかった」と言う。それぐらい自分のピッチングに手応えを感じていた。
「緊張もしていなかったし、コントロールには自信があったから」
球種はストレート、カーブ、シュートの3つ。
「初対戦だとバッターはヤマを張るのも難しいから、球種が3つあれば何とかなると思っていました」
メジャー1年目で勝利投手も経験する。4対4の同点で九回表にリリーフし、延長十一回表まで無失点に抑えたその裏、チームにサヨナラ弾が出た。
「もちろんうれしかったんだけど、サヨナラホームランで勝負が決まったから勝利投手の実感はあまり湧かなかった。記念のボールもライトスタンドに消えてしまったし」
この日はアジア初開催となる東京五輪の開幕11日前。村上さんの快挙を伝える日本マスコミの扱いは小さかった。この年は9試合登板し1勝1セーブ、防御率1.80の好成績を収めた。
そして2年目も4勝1敗、防御率3.75の成績を残す。「合格点じゃないですか」と向けると、村上さんは「そうなんだけど……」と浮かない表情に。65年もジャイアンツと契約を結んだ村上さんに「待った」をかけたのが南海球団だった。村上さんの保有権を巡り両球団が対立。交渉の末、村上さんは65年シーズン終了をもって南海に復帰することで決着した。この決定が開幕後の4月末。鶴岡監督に「来年は日本に戻って来い」と告げられた村上さんは「あと1カ月、決定が遅れていたらプロ野球を辞めるつもりでした」と答えたという。