坂野が北國新聞社の5階の編集局に入ったのは、17時30分をすぎていた。
編集局長室に入ると、1月4日の取締役会と臨時株主総会で選出される新役員の中核メンバー、砂塚隆広(すなづかたかひろ・現代表取締役社長)、小中寿一郎(こなかじゅいちろう・現代表取締役専務)、吉田仁(ひとし・現常務)がいた。
特別号外を出すことは、このメンバーですでに決められていた。
臨時株主総会は4日だが、この震災は、新体制でとりくむということの象徴のような景色だった。
坂野は締切り時間とページ数をまず決めなければならない。
昨年5月5日の地震の際の特別号外は、21時締切りで4ページだった。それにならって、まず、今回も21時締切り、4ページと決めた。
締切りまで3時間あまり、しかし、その時点で記事も写真も何もないのだ。しかも今回の地震でもっとも被害をうけているらしい奥能登の二市(珠洲市、輪島市)の支局、総局が正月とあってほぼ空っぽだった。
輪島総局長の村上浩司は金沢市で親族と過ごしており、珠洲支局長の山本佳久は北陸新幹線が延伸する敦賀駅を見に行っていた。輪島に滞在している記者は地震発生の時点でゼロ、珠洲も4月に入社したばかりの一年生記者の谷屋洸陽(たにやこうよう)がただ一人いるだけだった。
坂野はそのことにまず焦った。はたして地元紙らしい紙面がつくれるのだろうか?
共同通信経済部の女性記者がたまたま輪島に帰省しており、地震発生直後の16時50分に撮影した地割れに座り込む人々の写真がまず入ってきた。これは使える。
そして、次に坂野が見せられたのが、おしよせる津波を正面から撮影した写真だった。
一年生記者の谷屋は、地震直後に珠洲市役所から海まで怯えながらも歩いていき、150メートルまで近づいたところで、防波堤を黒いものが乗り越えてくるのを見た。それをスマートフォンで撮影した写真が送られてきたのだった(谷屋は撮影後すぐに逃げて無事)。
これで特別号外ができた。坂野は、そう感じた。
こうして21時に降版した特別号外は、白山市の印刷工場で1万部を刷り22時30分までには、金沢を中心に各戸投函の形で配られた。
この時刻には、まだ輪島には記者は誰もいない。