社会部兼写真部の三上聡一(としかず)は、16時30分には輪島にむけて社を出発していた。金沢市内にいた輪島総局長の村上も任地に戻るため金沢市内を出発していた。他にも輪島に入ろうとした記者はいたが、2日未明までに輪島に入れたのは三上だけだった。
というのは、能登半島のくびれに位置する穴水町から奥は、道路網がずたずたになっており通行がほとんど不可能だったからだ。たとえば村上の車は路上の大きな割れ目にはまり、タイヤがパンク、車中泊をすることになった。三上が奇跡的に輪島の朝市の火災現場に到着したのは、金沢を出発して10時間後、2日の午前3時前だった。
黒い夜空に炎を轟々と吹き上げる地獄のような風景がそこにはあった。
2日の朝、編集局に出勤した坂野はこうした写真をみているうちに、新聞休刊日の2日にも、特別夕刊をだすことを決断する。
三上には、サイドの記事を書いてもらうことになったが、ここで坂野は、「自分が見たまま、感じたままを書け」という指示をデスクを通じて出す。
北國新聞の記者たちは能登に故郷を持つものもいる。人も知っている。その能登がたいへんなことになっている。地元紙が被災地の記事を書くのに、賢しらな客観報道などいらない。自分が見たままを書け。そう、坂野は指示をだして、3日の朝刊は社会面を2面まるまる使って、奥能登の珠洲、輪島、能登、穴水の様子を現地の記者たちの署名ルポで埋めることになった。
奥能登二市二町の新聞販売店の安否
編集局が総力戦で紙面づくりをしているのと同じころ販売局は販売局員総出で、奥能登二市二町(輪島、珠洲、能登、穴水)にある新聞販売店の安否確認の電話をかけ続けていた。
その数45店。1万7000部強の部数がある。
1月5日までに43店まで連絡がついたが、どうしても店長に連絡がとれない店がふたつあった。このうち孤立集落のひとつである輪島市町野の販売所に記者がたどりついた。
「二階建ての住居の一階がぺちゃんこに潰れている」との報告が写真とともに販売局に入る。
販売局長の清水隆行はその写真を見ながら暗澹たる気分になる。
駄目か……。
以下、次回。
※AERA 2024年3月25日号