聖域を守る要塞が西側のA2/AD概念にそのまま当てはまるものではない。コフマンの議論として、その上位にある考え方は能動防御であって、ここでは戦争の最初期段階(IPW)における敗北の回避、攻勢による損害限定、そして消耗の強要が中心的な役割を果たす。そして、その主要な手段となるのが、水上艦艇・SSN/SSGN・航空機による長距離対艦ミサイル攻撃能力(本書で外堀と表現する能力)であった。

 この点は、現在のロシアの軍事戦略においても大きな変化はない。例えばロシア国防省による定義を見てみると、IPWとは開戦後の数日間から数カ月間程度の期間を指し、この間には「直近の戦略的目的の達成」または「戦力の主力を戦争投入し、これに続く行動を行う上で有利な条件の達成」が追求される。要するに、破壊戦略論者がいうように戦争が短期間で終結するのか、古典的な消耗戦略へと移行していくのかの分かれ目がIPWなのであり、そうであるがゆえにこの期間は「最も困難かつ緊張度の高い期間」とみなされるのである。

 そこで問題となるのはIPWにおける海軍の任務であるが、ロシア国防省はこれを「海洋戦域における艦隊の戦闘行動」としている。海洋戦域(OTVD)とは大西洋、太平洋、北極海、インド洋を特に指すから、IPWにおけるOTVDでの戦闘行動とは、外堀における損害限定と消耗強要のための対艦戦闘と理解できよう。要塞の主防衛線は現在も外堀であるということだ。

 しかし、ソ連崩壊後のロシア軍にとって、米国を中心とする西側の海軍力に正面から対抗することは簡単ではない。例えば1980年代のソ連海軍は60隻以上のSSBNを守るために約270隻のSSN/SSGNを保有していたが、2020年代初頭にはこれがSSBN10隻に対してSSN/SSGN21隻まで落ち込んだ。太平洋艦隊について言えば、現時点で在籍するSSN/SSGNは7隻に過ぎず、しかもこのうち3隻は工場で長期修理・改修中である。さらに長距離作戦行動の可能な艦艇や航空機の減少、対潜水艦・対機雷作戦能力の低さ、そして日米の対潜水艦作戦能力の高さを考えると、もはやバレンツ海とオホーツク海を聖域と見做すことはできないし、この点はロシア海軍内部でもかなりの程度まで大っぴらに議論されてきた。1970年代に登場した「戦闘安定性」の概念は、ここにきて大きく揺らいでいる。

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オホーツク海の脆弱性