沖縄の複雑な現状を個人のまなざしから描き出そうとする、初沢亜利さんのロングインタビューの2回目。今回はより「写真」についての考えにフォーカスを当てました。彼のスナップショットはいかに沖縄をとらえたのか?じっくり話をききました。(インタビュー:木本禎一)
前回は、沖縄に向かった理由や、沖縄の人たちと接して感じたことなどについて話を伺いましたが、今回は、 写真のことについて伺いたいと思います。初沢さんの写真を見ると、パンフォーカスのものが多いように感じるのですが、意識しているのですか?
初沢 光があるときは、なるべくパンフォーカスにしますね。
パンフォーカスは全体にピントが合っている状態のため、見る人がその世界の中に入っていきやすいという性質がありますよね。一方、ボケは見える部分が絞られるため、ある意味で誘導装置のような役割を果たすと思うんです。そうしたボケによる作用が嫌いということはあるんですか?
初沢 別にボケが嫌いというわけではなく、スナップ写真において必要がない、ということです。撮影の種類に応じてボケをつくることもありますよ。
それはどういうときですか?
初沢 例えば、ポートレートですよね。今回の作品の中でのポートレートという意味ではなく、仕事で人を撮るときですけど。奥行きを出すため、絵作りの一つ、昔からある手法の一つとして開放で撮ることもあります。ただ、そうしたときでも、背景に何かを語らせる必要があるときは、あまりボケ過ぎないように調整はしています。
沖縄の作品の場合、ボケは必要ない?
初沢 この一連のシリーズでは、あまりボケは意味を持たないと感じています。たしかに、ボケがないと、画面の中でどこを主題にしているのか伝わりにくいという側面もあるのかもしれません。けれど、そもそも写真は四角く切り取っている時点で、ものすごく不自由に誘導しているわけですよね。その上で、さらに主題を絞り込む、ということは基本的には望みません。
そこはある程度の自由を残しておきたい。自分自身も自由でありたいし、見る側にとっても自由であってほしい。
初沢 はい。昔はモノクロの作品もたくさん撮っていましたが、モノクロからカラーに変えたのも同じ理由からです。カラーの方があらゆるものに目が行く。だから、今はパンフォーカスでカラーというのが基本スタイルです。人間の目はいろいろなものを同時に見ることは実はできないんです。大抵は何か一つを見ているんですよ。見えていることと見ることはどう異なるのか、というのは写真論のイロハです。シャッターを切る瞬間まではファインダー越しにさまざまな人やモノの配置を同時に見ます。なおかつそれらの多くは動いているわけです。見えているのではなく徹底的に見ようとする。意識はしていないけど、よほど集中しているのでしょうし脳は激しく疲労します。カメラを構えると人が変わる、という話は写真家についてよく言われますが、独特な集中力が発揮されるのでしょう。
そうですね。
初沢 本来一つの事象しか見ることのできない目にそれだけの負荷をかけるわけです。画面に中のあらゆるものを等価に見せようとしたらボケが必要ないのはむしろ当たり前のことです。ただ、光量が足りなくてボケてしまうことも少なからずありますよ。これ以上感度を上げたくない。シャッタースピードもこれ以上は遅くすることは無理、となれば必然的にボケができてしまう。それだけのことです。
スナップ写真を撮影する上で、高感度の技術の進歩が有り難いのは言うまでもありません。例えば、イベントで撮影したこの写真は、保守政治家が数名いて、前には警備員、後ろにはどこかのミスと思われる女性が写っていますが、理想としては、全員にピントが合っていて欲しかったんです。でも、望遠レンズだったことと、日が沈みかけた時間帯で光量が足らなかったことで後ろの人が少しボケてしまっているんですよね。
ただ、それでも、この写真は極めてポリフォニックですよね。いわゆる多層的というか。登場人物がそれぞれ自分の時間を持っていて、それが決して交わっているわけでもなく、写真というひとつの世界にまとめられている。ここで重要なのは、画面全体に目が行き渡るパンフォーカスではなく、ボケがあって視線が誘導されたとしても、ポリフォリックな写真を撮れるということですよね。
初沢 いや、それは単に被写界深度の問題ではないですか? 例えば、この写真だって、絞り値をF1.4とかで撮影して、後ろの女性の性別さえ分からないくらいボケていたら、作品として成立していないです。このときは、まず仲井真前知事始め保守系の政治家の仲睦まじい様子に目がいき、次に前の警備員に目が止まり、後ろに視線を広げたら、無表情の女性の姿が気になった。
つまり、作品として成立するためには、後ろの女性の存在が必要だったと。
初沢 はい。ただ、それは意図して配置しているわけではない、という点が写真的ですよね。偶然、そこに女性がいたというだけのことです。と言い切ってしまう。ただ、確かにそこにその人はいた、と。
フランスの哲学者であり批評家のロラン・バルトが、著書『明るい部屋—写真についての覚書』の中で、「ストゥディウム」と「プンクトゥム」という概念について論じていますよね。「ストゥディウム」とは、一般的な関心事、つまり道徳的や政治的、文化的教養や知識によって、写真に写っているものを理解するということですが、「プンクトゥム」は、写真に写っている細部が、それら一般的な概念や価値観を打ち破って見る者を突き刺し、刺激するということです。初沢さんが撮ったこの写真は、そういう意味では「プンクトゥム」を誘発させると思うのですが。
初沢 その「ストゥディウム」と「プンクトゥム」については、今の写真家、特にスナップを撮る人なら誰もが学んでいることです。しかも困ったことに撮りながらついついそこを考えてしまう。でも、これが「プンクトゥム」だと言った瞬間に、それはすでに「プンクトゥム」ではなくなってしまいますよね。政治家たちがストゥディウムで、手前の男や後ろの女がプンクトゥムです。と撮り手が了解してしまったら、どうなるのか? 見る側はまたさらに違うプンクトゥムを発見するかもしれないけど、この議論自体がすでに意味を持たなくなっているのでは、とさえ思えます。主題が単一である前提に立って成立する概念で、ポリフォニーを前提としたらこの議論はそもそも成立しない。中心がない、というのがスナップ写真の本来の在り方でしょう。世界に中心がない、ということと同じです。
もう一枚背景がボケている写真について伺いたいのですが、側溝で遊んでいる子供を写した写真がありますよね。この写真について説明してもらえますか?
初沢 これは名護市長選挙の最中、選挙が一番盛り上がる投開票日前日の夕方から夜にかけて撮影したものです。街宣車で演説しているところに応援する人たちがたくさん集まっているのですが、その中で女の子が無邪気に遊んでいるのが気になって、僕も同じ目線までかがんで彼女を撮影しました。この写真も、本当はもっと背景にピンが欲しかったですね。まあ、カメラの限界、夜、間近で本当に暗かったから仕方がなかったんですけど。
昼間だったらパンフォーカスで撮っていましたか?
初沢 もちろん。昼間なら絞り値をF22くらいにしていたと思います。写真をよく見ると分かるのですが、実は左右にある旗は、右がスーツ量販店の旗で左が選挙の旗なんです。それがもうちょっと分かった方が面白くなったと思うし、これ以上ボケていたら、ただの女の子の写真になってしまうので、これくらいのボケ具合がギリギリだったんです。まぁそれ以前に、報道系のカメラマンだったら、こういった写真は撮っていないと思いますよ。
それはどういうことですか?
初沢 このとき、僕も新聞社のカメラマンの方たちと同じように名護市長選挙を追うためにこの場にいたので、当然、選挙の様子もいろいろと撮ってはいます。ただ、それらの写真はあくまでも政治の現場の記録です。この写真は、政治的状況を含みつつも「人間」というものを写し込んでいる。
人間?
初沢 はい。この写真を撮ったとき、ふと、昔子供服のカタログ撮影をしていたときのことを思い出したんです。学年でいうと小学校年1生から3年生くらいの男子や女子を撮影していたのですが、男の子はみんな落ち着きがなく、キョロキョロしたり、鼻くそをほじったり変顔をしたり、とにかくじっとしていられない。撮影が終わるとすぐにお母さんのところに駆け寄っていく。でも、女の子はじっとカメラを見つめるんです。私を綺麗に撮ってね、という顔をする。生まれながらの女優ですよ。ヘアメイクの人に聞いた話では、イケメンの若い男性カメラマンの方がいい表情をするらしい。つまり、たとえ小学1年生の女の子でも、相手をしっかり男と意識している。すでに「女」なんですよ。この選挙のときに出会った女の子も同様で、始めは側溝の中を行ったり来たりして遊んでいたのですが、カメラを向けると、じっとこっちを見てポーズをとるんです。男らしさとは何か?女らしさとは何か? 学生時代にジェンダーを学んでいたせいもあり、この点に関しては一層敏感なのですが、いずれにせよ人間であることの何か、がこの一枚には写し込めていると思う。
そうですね。それで前回聞いた、写真に「人間」や「沖縄」が写っていてほしいということにつながるわけですね。
初沢 そうです。この写真を見た人の多くは、まずこの子の魅力に引きつけられる。でも、実は沖縄にとって政治的にとても重要な場面、名護市長選挙投開票日の前日2014年1月18日に撮られたものです。さらに言えば、その選挙は、「日本人を許さない」という沖縄の民意が示された選挙で、その場面を本土からきた人間が撮っているわけです。
選挙の場面という政治的な問題と、その場で見つけた女の子のしぐさから感じられる「人間」、それがこの写真には写っていると。そして、それを撮った初沢さん自身も、非常に微妙な立ち位置にいる。
初沢 はい。だから、僕が本土から来た人間としてその場で写真を撮っているという複雑さと、政治的な責任のとれなさ、こんな写真でいいのかという逡巡、それらが常にせめぎあっている中で撮られた一枚です。報道カメラマン、フォトジャーナリストは撮らない、と言ったのは、僕の勝手な考えで厳密にそうとは言い切れないけど、ジャーナリズムは基本的に反権力をベースとして不正義を扱うものだからです。子供をメインに据えた写真は撮らないと思うし、ましてや紙面などで発表はしないでしょう。でも、僕は、この写真を週刊誌のグラビアページのトップに載せました。それは、政治と生活のはざまで揺れている沖縄が写っていると感じたし、僕自身も政治と生活の間で揺れ動きながら写真を撮っていた。そのような状態ですくい取った写真だからこそ伝わるものがあるのではないか?
写真集を見ると、政治の問題を扱った写真と沖縄の日常がランダムに並んでいますよね。それも初沢さん自身が政治と生活の間で揺れ動いていたことの表れですか?
初沢 確かに写真集の構成では基地反対運動の写真が日常的なスナップの間に入り込んでいます。見る人によっては、突飛なことをしていると思われるかもしれませんが、それが沖縄の日常なんですよ。政治の問題と日常が密接に絡み合っている。戦後70年沖縄はずっとそうだったのではないか?沖縄では戦後が終わっていない、と身をもって感じました。政治を撮り、日常も撮り、その中で僕自身の眼差しも確かに揺れ動いていた。それがそのままこの写真集になっているのです。