堕姫と妓夫太郎は救われたのか?
「遊郭の鬼」堕姫(※人間時代の名前は「梅」)・妓夫太郎が、遊郭という苦界の中で出会ったのが、童磨でなかったなら、彼らは救われていたのだろうかと、私も考えたことがあります。しかし、仮に産屋敷耀哉が、あるいは鬼殺隊の「柱」が、瀕死(ひんし)の梅と妓夫太郎と出会っていたとして、彼らの「命」は救われたのでしょうか?
「何とかしてよォ お兄ちゃあん 死にたくないよォ」(堕姫/11巻・第96話)
心幼い妹の、この叫びを妓夫太郎は何としても助けたかった。それには鬼になるしかありません。
「いつだって 助けてくれる人間は いなかった」(妓夫太郎/11巻・第96話)
つまり、妓夫太郎にとって、童磨の「どうしたどうした可哀想に」という語りかけは、彼らに差し伸べられた唯一の「救済」だったのです。周囲でこの哀れな兄妹を無視していた大人たちも、鬼殺隊すらも、社会の貧困、苦境、死から彼らを救うことはできなかった、というのは厳然たる事実です。
童磨が成し遂げられなかったこと
ただし、妓夫太郎は死の間際に、妹に「人間としての幸せな生」を与えられなかったことを悔やみます。童磨が「遊郭の鬼」に与えた幸せは、兄妹ふたりが離れ離れになりたくないという願いをかなえたことでした。そして、成し遂げられなかったことは、「人間としての幸せな生」のやり直し、です。
『鬼滅の刃』の鬼たちの苦悶(くもん)や真の願いは、これから最終決戦のエピソードの中で明らかになっていきます。童磨自身が抱えていた空虚さ、そしてそこからの救済の糸口も、これから描かれていきます。鬼たちが求めた願いとはなんだったのか。彼らを救う「神」はいないのか。今後、アニメや映画でどのような表現がなされるのか、続編を待ちたいと思います。