感情のない鬼・童磨
物語の後半ですが、童磨には、自分が何も感じないことを「やっぱり駄目だ」と自嘲気味にふり返る場面が描かれます。彼は思考と感情、そしてその表情が時にちぐはぐではあるものの、単なるサイコパスではなく、人の感情に対する「純粋な好奇心」を見せています。自分に「救ってほしい」「極楽に導いてほしい」とすがってきた信者に対して、童磨は涙を流すのですが、それは「ウソだ」と言い切ることができない部分でもあります。
童磨が人間に対してくり返す「可哀想だったので」「可哀想に」というセリフ、そして「助けてあげた」「幸せにしてあげた」「救ってあげた」は、何を思って発した言葉だったのでしょうか?
鬼・童磨の「救済」とは?
童磨は、自分が喰おうとした信者の少女が「助けて…!!」と逃げようとしても、その願いをかなえてやることはありませんでした。優しい声で人間に語りかけ、人を食糧にする、美しく、残酷な鬼、童磨。
「死んだら無になるだけ 何も感じなくなるだけ」(童磨/16巻・142話)
童磨が残酷なのは、彼にとって死は「恐怖」ではないからです。彼の不気味さは、肉体の痛み・恐怖に対する共感がないこと。人間が生きているかぎりくり返される苦痛、憂悶、そして恐怖は単純に「終わらせるべきもの」なのです。
そのために童磨は「人を喰う」のだと主張します。死を与える御使(みつかい)、たとえ神仏がこの世にいなくとも――これが自分が教祖として果たさねばならないと、童磨が考えた「お役目」だったのだろうと推察されます。