ドラマの部署は、ゴールデンタイムに放送するものであるからと、原作の報道色を薄め、震災に遭遇した家族の物語としてこのドラマをつくろうとしていました。実際にあがってきた脚本も、原作にはない家族のホームドラマがメインになったものだったのです。
しかし、当時の河北新報は、震災から半年以上たったとはいえ、社員たちは、新聞を届けるために必死で働いていました。
河北新報社は震災直後の5月に全社員にアンケートを行っていますが、たとえば「辛かったこと」に震災孤児取材をあげていた26歳の記者のこんな声がありました。
〈途中、自分が何を聞いているんだか分からなくなり、頭が真っ白になった。女子中学生は途中で泣きそうになり、怒りだした。自分のやっていることが情けなく思えた。
男子中学生とは安否確認の掲示板(避難者名簿)を一緒に見に行った。載っていない父親の名前をずっと探し、同じ場所を何度も何度も確認していた彼の姿を見てつらかった。取材にあたって自分が彼らにしてあげたことは何ひとつなかった〉
こんな状況だったので、脚本の第一稿はとうてい受けいれられるものではなく、「家族の話は、別に舞台が河北新報社ではなくともできる。この原作は、自ら被災した新聞社が被災した地元を報道しつづけたということに意味がある」と言って、書き直しをお願いしました。
第2稿、第3稿、第4稿……。脚本はなかなかこちらの思うようには、まとまりませんでした。
これでは、河北の人たちに顔がたたないと、自分で脚本の代案を書いて、プロデューサーに提示し、大げんかになったりもしました。
私がそのとき書いた脚本の代案は、尺という長さもわからず、場面展開も要領をえなかったために、脚本としてはまったく不出来なものでした。
しかし、このプロデューサーが偉かったのは、不出来な代案を読んでこちらの意図がよくわかったと、社内の立場が悪くなることを承知で、ドラマの部署を説得したことです。
今回、芦原さんが亡くなった直後に日本テレビが出したコメントは、自分たちに責任はない、ということを前面に押し出しているようで、「組織」しか感じられませんでした。