■太宰治ファンで三島由紀夫嫌いの理由
小泉今日子は、2005年から2014年まで、読売新聞の書評委員をつとめました。体験談を交えつつ、飾らないことばで本の魅力を語る――彼女の書評はたいへん好評でした。
そんな小泉今日子が読書に目覚めたのは、アイドル時代のことでした。
<読書は10代の頃、仕事が忙しすぎて現場では何もかもシャットアウトしたいとき本を読むのがいい、と気づいて以来の習慣>(注1)
最初に読んだ「純文学」は、太宰治の『人間失格』だったと語っています。彼女は感動したようです。
<……読んでみて太宰の、世間を相手に自分を演じる道化感が、自分と近い気がして夢中で読んでしまった。ユーモアもあるし、全然暗く感じなかったんです>(注2)
小泉今日子の語る太宰への「共感のことば」は、この作家の本質をまっすぐ射抜いています。
太宰治には、「破滅的な私生活を誇示するような小説を書いた人」というイメージがあります。一般に広まっているそうした「太宰像」は、実態に即したものといえません。日本近代文学史上稀にみる「リライト」の達人。それが太宰にもっともふさわしい称号です。
『お伽草子』や『新釈諸国噺』は古典文学の焼きなおし。『女生徒』は、太宰の愛読者だった女性の日記を改編したものです。『斜陽』も、太田静子――太宰の愛人で、彼とのあいだに、のちに作家となる太田治子をもうけた――の日記を下敷きにしています。太宰の主要作品は、多くが「リライト」ものです。「何を語るか」ではなく「いかに語るか」。そこに太宰の本領はあります。
『人間失格』も、「私小説」というより、「太宰当人が過去に書いた作品の『リライト』もの」と呼ぶほうが当たっています。
「私小説」では、「自分が体験したこと」を書いているという「切実感」が作品のウリになります。他人が見たら些細なことかもしれないが、実際にそれに遭遇した人間は語らずにいられない――書き手のそういう情動が、「私小説」の「読者にうったえる力」を支えるのです。
『人間失格』は、それとはまったく違うタイプの小説です。太宰はここで、「自分が過去に体験し、作品の素材にした出来事」を、他人の日記に対するのと変わらない冷徹さで眺めています。それらを「手記」のかたちに書き直し、読者ひとりひとりに「自分だけ作者から打ち明け話をされている感じ」を持たせること。その目標に向けて、寸分狂いのない計算の下、『人間失格』は展開されます。「身の上に起こったこと」を素材にしているとはいえ、「作者の私情」が小説の造型をゆがめている箇所はありません(「私小説」では、その種の「ゆがみ」がむしろ、読者の興味をひくポイントになったりします)。