撮影:八木清

星野道夫さんとの出会い

八木さんが通った大学はアラスカ州の内陸部にある。留学したころのフェアバンクスの人口は約2万5000人。インターネットもない80年代にどうやってこの小さな街にある大学の存在を知ったのか?

「高校時代、たまたま本屋で写真家・星野道夫さんの著書『アラスカ 光と風』(86年、六興出版)を手にしたら、この大学で学んだことが書かれていたんです。でも、星野さんがどんな人であるか全然知らなかったし、興味もなかった。本も買わなかったんですよ(笑)」

フェアバンクスを拠点にアラスカの自然やこの土地に生きる人々を撮影する星野さんの名が広く知られるようになったのは89年、「週刊朝日」で1年間にわたって連載された「Alaska 風のような物語」がきっかけだった。翌年、星野さんはこの作品で木村伊兵衛写真賞を受賞する。

一方、68年に長野市に生まれた八木さんは、地元では有名な老舗日本料理店の跡取り息子として育った。

「親からは、日本の大学に行け、って言われましたけれど、絶対に嫌で、断固としてあらがった。当時、留学して何を学ぶのか、明確な考えはありませんでしたが、ひと言でいうと、『北方志向』だったんです。そんなときに星野さんの本を見て、ピンときた」

89年、アラスカ州立大学に入学し、フェアバンクスで暮らし始めると、すぐに星野さんと出会った。

「この街の日本人のコミュニティーはものすごく小さいんです。共通の知り合いに、『星野さんの家でバーベキューをやるんだけど、来ない?』と誘われた。それが最初の出会いです。その後、友人らとよく星野さんの家に遊びに行くようになりました」

撮影:八木清

星野さんとは距離を置いた

入学後しばらくすると、図書館で「LIFE」の報道写真集を目にした。事件や事故の写真だけではなくスポーツやスナップなど、あらゆる分野の写真が収められていた。

「それを見ているうちに、写真の伝える力みたいなものをすごく感じた。もともとぼくは自然に興味があったので、自然保護を訴える手段として写真が使えるのではないか、と思った」

やがて、その思いは大学の授業を通して変化していく。

「最初は自然だけに目を向けて、写真を撮りたいと思っていたのですが、授業で先住民の暮らしや文化を学んでいくうちに、狩猟を主体とした彼らの生活がストレートに自然と結びついていることを実感した。やっぱり人間は自然のなかで生きているんだな、と思った」

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撮影は「天気が親分」