応天門の変を描いた「伴大納言絵巻」には、混乱する庶民の様子が描かれている。当時は庶民も帽子をかぶっていた(東京国立博物館蔵 ColBase)

 そして、平安時代の日本の総人口は600万人ほどで、平安京で暮らした人々はおよそ10万人。もちろんこのすべてが貴族や皇族というわけではなく、人口の大半は庶民だった。「雑色(ぞうしき)」「小者(こもの)」「下僕(げぼく)」などと呼ばれた彼らの仕事は、貴族や朝廷の下働きだ。女性へ和歌を運ぶ使い走りから、食事や着物づくりなど衣食住の手伝いまで、職種は幅広かった。

 貴族の屋敷にある大炊殿(おおいどの)と呼ばれる場所では、大きな釜で米を炊くための人が配属され、酒殿(さかどの)では庶民の手で酒、酢、漬物などがつくられていた。さらに贄殿(にえどの)では肉を調理する下僕もいた。このように料理だけでも多くの部署があった。

 織物所と呼ばれる部屋では織手たちが着物をつくり、染殿(そめどの)では染料を煮出して布を染めるなど、作業は細分化され、それぞれの部署で庶民が働いていた。刀を打つ刀工(とうこう)、邸宅をつくる大工、希少な品を売る商人など、技能を持った庶民も存在し、変わり種では、成人しても元服せず、貴族の家で牛の世話をして過ごす牛飼童(うしかいわらわ)という従者もいた。たくさんの庶民に支えられ、貴族たちは豊かな生活を送ることができたのだ。

 貴族に比べると窮屈な生活のように思えるが、時に庶民たちは宮廷の年中行事に乱入しごちそうを食べ尽くして逃げる、といった狼藉を働き、貴族を困らせたという記録も残っている。平安京に庶民が増えたことで、庶民のためのお祭りも開催されるようになった。今も京都の夏の風物詩として知られる祇園祭も、疫病を封じ込めるために庶民が始めた祭りである。

 平安時代も中期頃になると「正六位」以下の位の権威が消滅してしまう。一位から五位までは相変わらず貴族のままだが、ここで貴族でも庶民でもない層が活躍するようになる。それが六位以下の下級官人である。

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上級貴族に侍った下級官人が「侍」に