新年2、3日開催の「箱根駅伝」(東京箱根間往復大学駅伝競走)。今回は第100回という節目の大会となったが、記憶に残る素晴らしい走りを見せながらも、その後は伸び悩んだ選手は少なくない。そんなランナー人生を、あらためて振り返る(この記事は、2023年4月4日に「AERA dot.」に掲載した記事の再配信です。肩書や年齢等は当時のもの)。
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今年で98回目を迎える箱根駅伝だが、今も語り継がれる“伝説”の主人公になりながら、箱根での快走が競技人生のピークとなり、卒業後は活躍できなかった選手も少なくない。
早大時代に2区で初めて1時間6分台を記録するなど、3度の区間賞を獲得した“スーパーエース”渡辺康幸、東洋大時代に5区で4年連続区間賞、3度の区間新に輝いた“新・山の神”柏原竜二も、実業団では故障に悩まされ、“箱根経験者は大成しない”の声も聞かれた。
そんななかで、昨年の東京五輪では、早大3、4年時に1区で連続区間賞の大迫傑がマラソンで6位入賞をはたし、現役最後のレースで有終の美を飾った。さらには、順天堂大2年の三浦龍司が3000メートル障害7位入賞と、箱根の新旧のヒーローが国際舞台でめざましい結果を出した。
大迫、三浦同様、箱根駅伝でエースとして活躍し、なおかつ、在学中、卒業後も世界へ大きく飛躍した選手たちを振り返ってみよう。
箱根と世界の両方で輝きを放った代表格は、瀬古利彦だ。
早大入学後、胴長で無駄のない走法と無類の練習熱心さから、「将来マラソンで成功する」と確信した中村清監督の勧めで中距離から長距離に転向。3度目のマラソンとなった早大3年時の福岡国際マラソンで、日本人では宇佐美彰朗以来8年ぶりの優勝を実現した。
翌79年1月の箱根駅伝では、ニューヒーローをひと目見ようと、沿道は観衆で埋め尽くされ、手拍子とともに「セコ、セコ、ワセダ、ワセダ!」の大合唱。瀬古は2区の記録を1分3秒も破る区間新の1時間12分18秒(同年の2区は24.4キロ)をマークし、大声援に応えた。
当時の箱根駅伝は完全中継ではなく(10区のみ生中継)、現在ほど注目度も高くなかったが、これほど沿道が沸いたのは20年ぶりと報じられた。
同年の福岡国際マラソンも連覇し、モスクワ五輪代表を確定させた瀬古は翌80年、最後の箱根を2年連続区間新の1時間11分37で走り終えると、そのまま伴走のジープに乗り込んだ。前年のゴール直後、ファンが殺到し、危うくけがをしそうになったことから考えだされた“脱出作戦”だったが、3区以降の観衆は、ジープで登場した瀬古に大喜び。瀬古も「ずっと2区だけを走っていたので、4年目で箱根に来ました。いい思い出になります」とまんざらでもなさそうだった。