反乱政権を脱し、公権を分与・委任されたことは反乱勢力が体制内システムへと移行したことを意味した。この点は寿永二(一一八三)年十月宣旨にともなう東国沙汰権の分与がそれにあたる。その限りでは、反乱政権の公権の接触(合法化)という事態が進行する。したがってその後の守護・地頭制の重視(一一八五年説)も、右近衛大将就任(一一九〇年説)、さらには征夷大将軍就任(一一九二年説)も、いずれも東国政権が武家としての立場を、深掘りする過程といえる(注1)。
寿永二(一一八三)年段階を皮切りとした源家の右肩上がりのその後の画期は、武権の成長の視座からのものだ。他方で、朝家(朝廷)に視点を置いた場合、右近衛大将あるいは将軍補任にともなう官職授与は、鎌倉殿たる武家の首長を体制的秩序に組み入れるという意味で、これまた画期とされた。比喩的にいえば、“あばれ馬たる武士”を調教させ得た段階ということになる。別言すれば「内乱の十年」をへることで、朝家はその体制内に武家の組み入れを達成させたともいい得る。
「幕府」なる語をどう想定するかによるが、原義から考えるならば、鎌倉の武権は、当初の国家体制外から内乱後の建久段階で体制内の存在となった(研究者によっては、それを「王朝の侍大将」的立場として解す考え方もある)。そうした点を前提にすれば、幕府とは体制内認知の武権であり、反秩序や騒乱を鎮圧すべき役割(国家守護権)を分与された存在、といえる。体制内システムとしての武家の存在は「内乱の十年」を通じて、幕府として認知されたことになる。