本来「家」とは三位以上の貴族の居所の呼称で、「宅」とは区別される。(「家」の呼称は大伴家持の例でもわかるように、「ヤカ」「ヤケ」と訓じて、「公家」はまさに「コウケ」「クゲ」「オホヤケ」と呼称される。すなわち公的要素が「家」自体に内包されていた。したがって「公家」と並立し得る「武家」の概念は軍事的貴族としての側面が随伴する。「家」の呼称は国家権力の分掌者に付与されるものだった。

「武士」はその誕生から、成長へのプロセスのなかで、時として国家権力(朝廷)と対決・対峙する場面もあった。しかし次第に、武家という権力体の構成員として位置づけられるようになるにしたがい、牙を抜かれ、国家の体制内権力として安全弁の機能を果たすにいたる。『平家物語』以下の軍記は、院政期に源平両家が朝家(公家)の軍事装置を担う機能として、位置づけられるなかにあって、そうした武士の役割を伝えたものだ。

 平安の後期以降、国家的行事を主催する「公家」に加え、祈る行為を軸とする宗教権門たる「寺社家」、さらには戦う人々の集団たる武力担当の「武家」、その諸権門が相互補完的に国内権力を構成(権門体制)する流れが顕著となる。だから、「武家」の登場は武士の利害を制御することもあり得た。その点では“武士の敵は武家”との逆説的な表現も可能となる。「武士」が「武家」の構成員となった段階で、「武士」一般の利害の調停者たり得る状況が現出する。それが存在としての「幕府」の役割だった。そして、その幕府もまた、国家的認定に対応する表現といえる。

 武家の府たる幕府の語感には、武権の委任・委譲の観念がともなった。ここで指摘しようとするのは、あくまで「幕府」なるものの観念に関してのことだ。そうした幕府の観念は、自らを「関東」と称した鎌倉の権力が、当初より抱いていたものではない。

暮らしとモノ班 for promotion
「集中できる環境」整っていますか?子どもの勉強、テレワークにも役立つ環境づくりのコツ
次のページ
「鎌倉幕府」と呼ばれたのは後世のこと