江戸末期、尊王思想が芽吹くなか、武家=幕府の立ち位置が問題にされたときに天皇との“始末のつけ方”をめぐり、「武権の委任・委譲」の是非が問われ始めたのだった。国学や水戸学の水位の高まりで、大政委任論が市民権を得た結果として登場するものだった。

常識のなかの「幕府」観

 鎌倉を政治的磁場とした武家の権力は、後世、「幕府」と呼ばれた。幕府と表現する場合の常識では、歴史観念としては武家の政府、すなわち軍事政権の意味で用いられる。その点で鎌倉政権が幕府の名に値することは明らかだ。

 付言するなら鎌倉の地名を冠した「鎌倉幕府」の呼称が生まれたのは、後世に鎌倉から別の場所に武家政権が移った後だった。当たり前だが頼朝自身、その政治的居所を「幕府」と名づけたりはしない。ちなみに『吾妻鏡』では「幕府」の表現について、“建物”や“居館”を指摘する用例は認められるにしても、政権自体を指し用いる例は見当たらない。

 幕府とは、天皇による権力システムの一翼を担うところに本質がある。いうまでもなく漢語での「府」とは、「国府」や「鎮守府」の事例でもわかるように、公権の執行機関たるところに特色があった。ただし「幕府」は、平時の制度・行政上とは区別される非常時体制下での呼称だった。朝廷にとっては非常時といえ、体制内での権力システムであろうことに変わりはない。その点で将軍出征時における幕営内での軍の呼称という語義は、朝廷(公権)への忠実な軍政執行が前提とされる。

暮らしとモノ班 for promotion
なかなか始められない”英語”学習。まずは形から入るのもアリ!?
次のページ
反乱政権から体制内システムへ