温厚とされる秀忠だが、大名を容赦なく改易し将軍権力の強化を図った点は家康と同じだった。福島正則ら外様大名だけでなく、弟の松平忠輝やおいの松平忠直、本多正純など、一門や譜代大名も処分している。妻の江が生んだ娘・和子を後水尾天皇の皇后とし、家康の悲願であった天皇との縁戚関係も実現した。外孫の興子は後年、明正天皇として即位し、幕府の権威を高める役割を果たした。

 僧侶に紫衣の着用を認める勅許を幕府が取り消した紫衣事件は、朝廷に対する幕府の優位を決定付けたといわれる。秀忠は嫡子・家光に将軍職を譲ったのちも、家康同様、大御所として実権を握った。父の地盤を受け継ぎ、より強固にした手腕は、地味ながら徳川15代の礎となったのである。

徳川将軍15代と御三家・御三卿系図(図版作成 ウエイド)

 しかし、秀忠にとって「生涯の禍根」となった出来事がある。「関ヶ原遅参事件」だ。「どうする家康」でも松本潤演じる徳川家康が、関ヶ原の戦いでの遅参を叱責する場面があった。上方で西軍が決起した時、秀忠は徳川の主力を率いて中山道を下った。だが、途中の上田城攻略で手間どり本戦に間に合わず、本戦で活躍したのは外様の大名や武将が多かった。信濃平定は家康の命だったため嫡子の座は保ったが、論功行賞で多くの領地が外様大名のものになり、戦後の勢力図に大きな影響を与えたといわれる。

(構成 生活・文化編集部 塩澤 巧)

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