11月26日放送の大河ドラマ「どうする家康」第45回が描くのは「二人のプリンス」。豊臣秀吉が残した豊臣秀頼と、後に徳川幕府2代将軍となる徳川秀忠の物語だ。ドラマで森崎ウィンが演じる秀忠は、家康の三男で、律義で実直なだけがとりえだったとされる。徳川家康はなぜ、この三男を後継者に指名したのか。「だからわかる」シリーズの1冊『テーマ別だから政治も文化もつかめる 江戸時代』(監修 伊藤賀一/編集 かみゆ編集部)は、2代将軍誕生の背景と実際の手腕を詳細に解説している。
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徳川秀忠は、「どうする家康」では「於愛の方」として登場し広瀬アリスが演じた西郷局を母に持ち、正室は浅井長政の三女で茶々の妹・江。長女の千姫はライバルとして描かれる豊臣秀頼に嫁いでいる。
早くから嫡子に定められたのは、豊臣秀吉の養子となって羽柴秀康を名乗った兄と父・家康が疎遠だったためとも、秀忠の温和な性格を、父・家康が「守成の時代」にふさわしいと考えたためとも言われる。
家康が将軍職を秀忠に譲ったのが1605(慶長10)年。1615(元和元)年の大坂の役を経て元号は「元和」と改暦され、「元和偃武(えんぶ)」と呼ばれる平和の時代が到来した。ここから幕府は厳しい大名統制に乗り出す。大名の勢力をそぐため、居城を一つに限る一国一城令を発し、支城をすべて破却させた。
また、武家の基本法である武家諸法度も発布。武家諸法度は将軍の代替わりのたびに発布されたが、元和令は「文武弓馬の道にひたすら励め」「酒におぼれるな」「幕府の許可を受けない結婚はするな」などと定めた。幕府と大名の主従関係が公的に定められるとともに、諸大名が公権力として領国と領民を支配する正当性が認められた。 さらに、禁中並公家諸法度を制定し、天皇や公家の役割も定めた。
1616(元和2)年に家康が死去し、大御所と呼ばれた家康と将軍との二元政治が解消されると、秀忠は改めて大名・公家・寺社に領地の支配を認める領知宛行状を発給。統治者としての自身の権力を世に知らしめた。