貯蓄するのに痛みはないが、卵子凍結をするために、女性は大量のホルモン注射を打たなければいけない。さらに、卵子を採取するのに長い針を身体に刺すのは激痛を伴う。貯蓄は貯まるだけだが、卵子を維持するための費用は発生し続ける。費用だけの話ではない。例えば、自然に妊娠・出産した場合、凍結した卵子はどうするのだろうか。「もう、その卵子は、使いません」と決めるのはどのタイミングなのだろうか? 使われなかった卵子は、「捨てる」のだろうか? 再生医療や生殖医療技術研究に利用され得るとも言われているが、その事実をどう考えればよいのだろう。
わかるのは、妊娠・出産にまつわる医療ビジネスに、これまでターゲットにされていなかった若い健康的な女性たちが入ってきていること。「子供を産みたい、育てたい」という希望が、ビジネスの需要として急速に伸びていることだ。そこで消費されるのは、結局は女性の身体であり、利用されるのは「女性の自由意思」である。
女性の選択肢が増えるのは良いこと。
私自身、そう思って生きてきた。あまりにも私たちには選択肢がなかった時代が長かったから。結婚相手を選ぶ自由も。子供を産む自由、産まない自由も。それでも「選択肢」というキラキラした自由は、ときにもしかしたら罠をしかけてくるのかもしれない。生殖医療技術に関しては、そんな罠を感じ身構えてしまう。身構えるくらいでちょうど良いのだとも思う。
女性がした選択を批判はしたくない。私は指原さんのファンでもあるので、彼女の30代がますます活躍できる場になることを心から願っている。私の若い友人たちが選んだ選択肢が、彼女たちを救うものであってほしいとも思う。そのためにも、その選択肢が、結局はどこか女性の身体を、命を、削るようなものになるものであってはいけないと、見張り続けていく必要があるのだろう。女性の身体と命を守るために。