AERAの将棋連載「棋承転結」では、当代を代表する人気棋士らが月替わりで登場します。毎回一つのテーマについて語ってもらい、棋士たちの発想の秘密や思考法のヒントを探ります。32人目は、船戸陽子女流三段です。AERA 2023年11月13日号に掲載したインタビューのテーマは「印象に残る対局」。
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船戸陽子は東京都内の原宿で生まれ育った。
「昔はまだ表参道ヒルズじゃなくて、同潤会アパートとかがあって。でもそのあたりで遊んでたわけじゃないんですよね。将棋をしてたから。子どもっぽいことは、なにもしてないんですよ」
将棋は小1のとき、父から教わった。娘が才能を示すと、父は厳しい指導を始めた。
「『朝5時に起きて、詰将棋を解け』と言われたりね。私はわりと早指しだと思われてるけど、すごい長考する子だったの。でも『子どもは直感力が大事だ』って考えた父が、チェスクロック(対局時計)を押して、短時間で指させるようにして。それで早指しになった。学校から帰ったら千駄ケ谷の将棋会館に直行か、千駄ケ谷行くか、それとも渋谷の高柳道場に行くか」
船戸は小学生ながら、女性アマの大会で好成績を収めていく。そして父が望む通り、プロへの道を歩み始めた。
「師匠(高柳敏夫名誉九段)が主宰する柳門会に通っていました。小学生の女の子から見たら、兄弟子たちはみんな強くて、ちょっと怖かった(苦笑)。『将棋を怠けて、学校の成績が上がったら怒られるのが高柳一門』と言われてました(笑)。いまになってみたら面白いですね」
1988年。まだ13歳だった船戸は、当時の規定では仮会員として女流棋士の資格を得る。のちには正会員となり、若手のホープと目された。
「(女流棋士制度開始以来)私は25番目です。私より先輩でまだ現役の方は、6人ぐらいでしょうか」
船戸は自分に自信が持てなかった。年度成績は指し分け(勝率5割)前後が続いた。
「ただでさえ自己肯定力が低いのに、姉弟子が蛸島さん(彰子女流六段)、清水さん(市代女流七段)でしょう。(一門筋の姪弟子で)あとから来るのも甲斐さん(智美女流五段)、石橋さん(幸緒元女流四段)みたいな感じで。『私は高柳一門の中で落ちこぼれなんだな』と思って、ずっと生きてきました」
船戸は懸命に指し続けた。LPSA(日本女子プロ将棋協会)主催の1dayトーナメントでは石橋や中井広恵女流六段などトップクラスに勝って何度も優勝を果たした。