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 スズ子と語り合った臨月の大和は、こう言っていた。「私ね、この子が生まれたら、私の何かが変わりそうな気がするの。それは踊りとかそういうことを含めて、自分がどう変わるのか、すっごく楽しみ」。これからの自分と踊りについて、語っていたのだ。

 極めたい道があり、その上、他人思い。そんな大和をあっさり死なせた意味は何だろう。実在のモデル云々はおいておき、考えた。気づいたのは、「いい事=見返り」を求めている自分だ。「見返り=他人からの評価」と言えるかもしれない。SNSなどでの「充実ぶり合戦」に振り回されている自分がいる。私も含め、世の中全体が自意識肥大になって、いつも「いい事=見返り=評価」を求めている。

 改めて、大和を思う。彼女は桃色争議からの退団という理不尽に直面した。そのとき、「いつかいい事がある」と思ったかもしれない。でもその「いい事」は「見返り」ではなかったはずで、それよりも出産後の自分の変化を楽しみにしていた。他人の目でなく、自分の目で己を見つめる。そして他人を思いやる。間違いなく“正しい人”の営みなのだが、そんな彼女が若くして死んだ。そういう人生もあるのだな。そう思った時、ふと「諦念」という言葉が浮かんだ。人生と諦念はセットなのかもしれない、と思った。

 この週、もう1人、心に残ったのがスズ子の生みの親、西野キヌ(中越典子)だった。「いい事ばかりはありゃしない」を地で行くような人生を歩んでいる。

 地主の次郎丸家に奉公に行き、跡取りの子を妊娠、次郎丸家だけでなく、実家からも追い出される。同時期に妊娠していた幼なじみのツヤ(水川あさみ)が一緒に産もうと声をかけ、キヌの産んだスズ子を引き取る。後に農家の西野家に嫁いだわけだが、次郎丸家でのあれこれは広まっているに違いなく、苦労が忍ばれて余りある。

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諦念を積み重ね、キヌはひたすら生きた