哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
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宗教学者の島薗進先生と鎌田東二先生と、「宗教と修行」というテーマでオンライン鼎談をした。私は修行者という立場から発言を求められた。先達お二人を前にして「お釈迦様の掌で暴走する孫悟空」という私の最も好きな役割を思う存分演じた。私が報告したのは「修行というのはアジア固有の自己陶冶であり、これに類するものは西欧にはない」という論である。
修行というのは先達の背中を見ながらひたすら道を進むだけのものである。めざすべき目標として「大悟解脱」「天下無敵」というような言葉だけはあるが、むろん死ぬまでどれほど修行を積んでもそんな境位に達することはできない。自分が全行程のどのあたりにたどりついたのかさえ知らぬまま、道半ばにして修行者は息絶える。だが、修行者にとってそれは恥ずべきことでも、悔やむべきことでもない。修行というのは「そういうもの」なのである。