しかしながら、近衛前久書状の「自身太刀打ち」という表現は、上杉政虎(謙信)が自身の勇敢さを誇らしげに報告し、前久がそれを称賛したという流れで登場したと考えられる。仮に「謙信のいる本陣まで武田勢が攻め込んできている」という政虎にとって不名誉な戦況だったとしたら、政虎が前久への書状でわざわざ触れるはずがない。通説が語るように、政虎が武田の本陣に斬り込んでいったという状況を想定すべきである(さすがに単騎で斬り込んだわけではないだろうが)。

 やはり第四次川中島合戦そのものは上杉方の勝利だったと言えよう。だが上杉はこの戦術的勝利を活かすことができなかった。かえって合戦に敗れた武田の方が合戦後、攻勢に出ている。信玄は川中島地方を維持したのみならず、合戦直後の永禄四年十一月には、同盟関係にある北条氏康の要請を受けて、西上野に出兵して関東の上杉方を攻撃しているのだ。北信争奪戦における信玄の戦略的勝利は明白である。

 これは戦術家の上杉謙信と、戦略家の武田信玄との差である。歴史学者の磯貝正義氏が説く通り、「輝虎にとって対戦と対戦との間が空白の期間であったのに対し、信玄にとっては、この休戦期間こそその勢力を伸張すべき絶好の機会であったのである。むしろ対戦が終わった時点から、信玄の本領である浸透作戦が開始されたといっても過言ではない」のである。

 武田・北条の同盟により、上杉謙信は信濃・関東での二正面作戦を強いられた。謙信が信濃で多少の戦果を挙げても、関東に転戦している間に信玄の調略によって帳消しにされてしまう。上杉は武田に対して戦略面で圧倒的に不利であり、川中島での局地戦に勝利したところで焼け石に水である。戦略の失敗を戦術で挽回することはできないのだ。

 第四次川中島合戦は、戦国時代を代表する両雄が激突したという見かけの華やかさに惑わされ、過大評価されてきたきらいがある。同戦に勝利した謙信が戦略的には敗北したという事実は、目先の利益にとらわれ長期的展望に欠けるところのある私たち日本人にとって、大きな教訓である。

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