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川中島の戦い(アフロ)
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 北信濃の覇権をめぐり、武田信玄と上杉謙信が対決した川中島の戦い。五回にわたり行われたとされ、最大の激戦は第四次川中島合戦だった。あまりにも有名な合戦であるにもかかわらず、謎の多いことでも知られている。五度にわたる合戦でも明確な勝敗はつかなかったとされるが、歴史学者の呉座勇一氏はこの戦いをどう見るのか。『動乱の日本戦国史 桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集して解説する。

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 第四次川中島合戦はどちらが勝ったのだろうか。戦闘の経過を詳しく記した最も古い史料『甲陽軍鑑』は、合戦の前半は上杉方、後半は武田方の勝利と記し、痛み分けのように叙述している。

 けれども武田・上杉の双方が自軍の大勝を宣伝した。武田信玄は、合戦翌月の十月三十日に京都清水寺の成就院に出した書状で「乗り合い一戦を遂げ勝利を得、敵三千余人を討ち捕り候」と語っている(「温泉寺所蔵文書」)。

 一方、上杉政虎(謙信)は当時、下総の古河にいた関白近衛前久(当時は「前嗣」と名乗っていた)に合戦の結果を書状で報告した。前久は十月五日の返書の中で「今度信州表において、晴信に対し一戦を遂げ、大利を得られ、八千余討ち捕られ候事、珍重大慶に候」と、政虎の大勝利を祝っている(「太田作平氏所蔵文書」)。

 近世の編纂物であるが、『甲越信戦録』によれば、両軍の死者数は武田軍四六三〇人、上杉軍三四七〇人だという。武田軍の戦死者が上杉軍のそれを上回っているが、そもそも武田軍の方が大兵力だったので、損害率はそれほど変わらないだろう。

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